木本藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 04:23 UTC 版)
木本藩(このもとはん[1])は、江戸時代前期の短期間、越前国に存在した藩。藩庁は大野郡木本(現在の福井県大野市木本)に置かれた[2]。1624年、松平忠直改易後の福井藩を弟の忠昌が継承した際、末弟の松平直良に2万5000石が与えられて成立したが、10年あまりで廃藩となった。
注釈
- ^ 現代では温見峠越えの国道157号が木本付近を通る。江戸時代幕末期には、美濃国から蝿帽子峠を越えて越前国に入った天狗党が木本領家村に分宿して一泊している[3]。
- ^ 越前に入封した際の拝領高には諸説あるが、『福井県史』では68万石であろうとしている[6]。
- ^ 「福井」と改称されるのは松平忠昌の入封後である。
- ^ 『福井県史』では福井藩松平家の「家譜」をもとに、忠直の隠居と豊後への配流を「処分」と表現している[11]。一般的な辞典類では「改易」としている[10]。
- ^ 『福井県史』は、当時の大名が「御国替」と見なしていたことなどを引き「明らかに父の跡を継いだといわねばならない」として、福井藩(北ノ庄藩)の「3代藩主」であったと見るべきであると指摘している[12]。
- ^ 忠直の弟たちによって「分割」されたほか、付家老であった本多成重が独立した大名(丸岡藩)になっている。
- ^ 『角川地名大辞典』の「木本領家村」項には「松平直良は木本藩の藩主として当村の春日山城に入った」[3]とし、『福井県史』は「木本には城郭はなく木本領家村のうちに館が設けられたものと思われる」[13]とする。
- ^ 松平直政は寛永10年(1633年)に信濃国松本藩に移されており、その後は丸岡藩の預地となっていた[9]。
出典
- ^ “松平直良”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2022年5月21日閲覧。
- ^ 二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」東京堂出版、2004年9月20日発行(252ページ)
- ^ a b c d e f “木本領家村(近世)”. 角川地名大辞典(旧地名). 2022年5月21日閲覧。
- ^ a b c d e “春日山城跡(大野市) 保存は良好、鋭い堀切 ふくいの山城へいざ(48)”. 福井新聞. (2019年3月7日) 2022年5月21日閲覧。
- ^ “木本郷(中世)”. 角川地名大辞典(旧地名). 2022年5月21日閲覧。
- ^ a b c “第二章>第一節>二>拝領高”. 『福井県史』通史編3 近世一. 2022年5月21日閲覧。
- ^ “第二章>第一節>二>家中知行割と寺社領”. 『福井県史』通史編3 近世一. 2022年5月21日閲覧。
- ^ “第二章>第二節>二>直政と直基の治政”. 『福井県史』通史編3 近世一. 2022年5月21日閲覧。
- ^ a b c d “第二章>第二節>二>大野藩の成立”. 『福井県史』通史編3 近世一. 2022年5月21日閲覧。
- ^ a b “松平忠直”. デジタル版 日本人名大辞典+Plus(コトバンク所収). 2022年5月21日閲覧。
- ^ “第二章>第一節>二>気随者忠直”. 『福井県史』通史編3 近世一. 2022年5月21日閲覧。
- ^ a b c d e “第二章>第一節>二>一門大名の創出”. 『福井県史』通史編3 近世一. 2022年5月21日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i “第二章>第二節>二>木本藩”. 『福井県史』通史編3 近世一. 2022年5月21日閲覧。
- ^ “第三章>第二節>一>金山の開発”. 『福井県史』通史編4 近世二. 2022年5月21日閲覧。
- ^ a b “第二章>第二節>二>大野藩領の変遷”. 『福井県史』通史編3 近世一. 2022年5月21日閲覧。
- ^ a b c “木本藩”. 角川地名大辞典(旧地名). 2022年5月21日閲覧。
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