最初の中国勤務
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 17:57 UTC 版)
1915年、外務省入省。1916年領事官補として広東に赴任したが、まもなく原因不明の高熱に苦しみ、静養のため帰国した。静養先の磯部温泉で、のち陸軍内の不拡大派の中心人物として知られるようになる柴山兼四郎の知遇を得る。 病気回復後、同年暮には天津在勤の命を受けて赴任。総領事代理として領事裁判に当り、居留民間の訴訟、刑事事件を裁いた。天津時代は物価の高騰や家族の病気などで大変窮乏し、離任時には3000ドルの借金を抱えたが、同文書院の先輩の援助で借金を解決することができたという。
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