明暦の町建て
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 19:33 UTC 版)
「新潟市の行政区域の変遷」の記事における「明暦の町建て」の解説
寛永15年(1638年)、長岡藩主牧野忠成が新発田藩主溝口宣直に「信濃川の流れが変わったため、新潟町を最寄りの白山島・寄居島に移転させる」という旨の書状を出し、了解を得る。その後新発田藩と協議し、幕府の許可も得て寛永20年(1643年)に州崎番所が建てられる。 しかし、この時にはまだ町は移転しておらず、長岡藩が幕府から移転の許可を得たのは承応3年(1654年)のことだった。実際に町の移転はその前から徐々に行われていたが、長岡藩は幕府からの回答があった翌年の明暦元年(1655年)を新潟町移転の年としている。 町を移転するに当たっては、それまでの町割りを崩さずに移転することが原則とされた。そして、信濃川に並行して古町、本町、大川前の通りが作られ、片原堀(東堀)、寺町堀(西堀)などの掘割をもって運輸網とされた。
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