旧歌棄佐藤家漁場
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座標: 北緯42度47分24秒 東経140度18分36秒 / 北緯42.79000度 東経140.31000度
旧歌棄佐藤家漁場(きゅううたすつさとうけぎょば)は、北海道の日本海側南部に位置する寿都湾に面する寿都町字歌棄町に所在する、明治時代を全盛期とした佐藤家の漁業経営の拠点、漁場の遺跡である[1]。2016年3月1日に国史跡に指定された。
概要
初代栄右衛門(文政9年 - 明治28年)は陸奥国信夫郡飯坂村(現・福島市飯坂町)に生まれ、嘉永2年に函館に移り、その後叔父から松前の商店を相続し、呉服太物の商いに就いた。嘉永5年、ヲタスツ・イソヤ(歌棄・磯谷)両場所の請負人となり、翌6年磯谷に移住し、地域の行政的な役割をも担いながら、開拓使による明治2年の場所請負制の廃止布達後も漁場経営を続けた[1]。佐藤姓を名乗ったのは、安政3年に私費で黒松内・歌棄間の道路を開削したことにより、箱舘奉行から一代苗字を許されたことによる。また、初代栄右衛門は建網(行成網)の開発を行い、北海道漁業の振興に大きく貢献した[1]。
佐藤家は明治5年ごろ、歌棄に転住し、明治6年には開拓使から磯谷郡・歌棄郡両戸長兼駅逓取扱を命じられている。明治20年ごろには海産干場28カ所、鰊行成網21カ統を有する道内でも有数の大規模経営を行うに至った[1]。後志地方での鰊漁は明治20年代から30年代に最盛期を迎えるが、佐藤家では二代目栄右衛門(文久2年~大正6年)の代に漁業経営の最盛期を迎え、和風と洋風を併せた九間取の住宅主屋と邸内社社殿の建造および海の袋澗の築造を行った。さらに、鰊の干場としての利用が考えられる住宅裏手の段丘上の土地も、明治31年に払下げを受けている[1]。これは明治20年代に土地取得の出願を行い、開墾を行った結果と考えられる。佐藤家は、歌棄小学校、寿都公立病院、寿都銀行の設立などに奔走し、二代目栄右衛門は明治37年に北海道会議員になり、さらに大正4年には衆議院議員となった。鰊は主屋周辺で加工され、干場での乾燥を経て鰊粕等の魚肥や食用の身欠き鰊とされ本州に出荷された。大正末年には鰊が不漁となり、佐藤家漁場は昭和5年に閉鎖された[1]。
旧歌棄佐藤家漁場の主屋と土蔵が昭和43年に北海道の有形文化財に指定されている。旧歌棄佐藤家漁場の最盛期の建物配置は明治期の写真や明治34年の「家屋台帳」から把握できる。主屋は木造二階建てで、屋根の上に六角形の煙出し兼ガラス窓が載る[1]。明治20年ごろ着工し、明治23年ごろに竣工したものと推定される。主屋は郵便局としての役割をも担った。遺存する建物として、他に明治31年着工、翌32年竣工の邸内社(宝栄稲荷神社)社殿がある。失われた建物に番屋、米庫、食塩庫、荷物庫等があり、かつて建物があった場所には地割を示す石積みや段地形が存在する[1]。
明治23年に前浜に、陸揚げするまでの間、繰込袋に入れた鰊を一時保管するための袋澗が築造され、同26年に暴風により壊滅するが、同31年に再建された。漁船接岸用の水路、それに連続する岩盤の掘削跡、袋澗の石垣を構成する石材が残されている。文書から再建の経緯や所要経費等も知ることができる[1]。住宅の背後の段丘上の土地は畑地の地目で佐藤家が取得したもので、季節的に干場として利用するために入手したものと考えられる。斜面には作業道が確認でき、段丘上には平坦面を確保するための盛土や石積み、水路等が確認される[1]。
このように、旧歌棄佐藤家漁場は前浜に築造された袋澗、居宅と邸内社、背後の干場と、海から陸地へと連続して展開する北海道西海岸の漁場の佇まいを今日に伝える極めて貴重な遺跡である。肥料供給の面から畿内、西日本の商業的農業をも支えた江戸時代から明治・大正期の北海道の漁業の在り方を知るうえで重要であることから[1]、国の史跡に指定されている。
脚注
関連項目
- 旧歌棄佐藤家漁場のページへのリンク