旧キング邸 (函館市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/25 22:36 UTC 版)
旧キング邸(きゅうキングてい)は、かつて北海道函館市にあった、西洋館の住宅建築。時期によってアメリカ合衆国やソビエト連邦の領事館が置かれたことがあった。
E・J・キングと函館
1866年にニューヨークで生まれたE・J・キングは、若くして船員から船長となり、1892年(明治25年)に来日して、日本郵船に入社した[1]。1894年に、同僚であったT・M・ラフィン (T.M.Laffin) とともに退社し、ラフィンが横浜で興した外国汽船取扱業に加わり、ラフィン商会の函館支店長として函館に赴いた[1]。 函館支店は、当時の「仲浜町8番地」(「仲浜町」は、後の港町(みなとちょう)の一部であり、中浜町 (函館市) とは異なる)にあり、船舶取扱とともに、当時盛んであった千島列島のラッコ・オットセイ猟による毛皮の委託販売を扱い、石垣隈太郎と提携しておこなったこの事業で大きく成功したとされる[1]。 函館には、明治初頭にはアメリカ合衆国の領事館が置かれていたが、キングがやってきた時期には、廃止されて久しかった[1]。1904年(明治37年)4月に、キングは、代弁領事 (consular agent) の肩書を与えられ、本業のかたわら、領事として業務を扱うようになったが、代弁領事としての収入はわずかで、名誉職に近いものであったとされる[1]。 旧キング邸は、キングが代弁領事に任じられて間もない1904年9月に、船見町に新築した大邸宅であり、領事業務もここで扱われたため「アメリカ領事館」とも称された[1]。 1910年(明治43年)に、キングは函館の事業をラフィン商会から独立させ、新たな共同経営者と「キング&シュルツ商会(King & Schulze)」を設立し、さらに1915年(大正4年)には、「合名会社E・J・キング商会」として独立し、木材輸出などに注力した[2]。 キングは、1917年(大正6年)に負傷し、治療のため横浜へ移ったが、1918年(大正7年)に邸宅や家財は売却され、邸宅は堤清六が買い取った[2]。代弁領事の業務は、商会の従業員であったR・E・ヘウン (R.E.Heun) が代理で事務にあたっていたが、キングが、1919年(大正8年)3月に横浜で死去したため、函館の領事館は7月に閉鎖された[2]。
その後
旧キング邸を買い取った堤清六は、これを社交の場として用い、以降この建物は「堤倶楽部」として知られるようになった[2]。
1925年(大正14年)1月に日ソ基本条約が調印され、日露戦争以来断絶していた国交が回復され、4月には函館にソビエト連邦の領事館が開設される運びとなって、ロギノーフが査証委員長として着任して業務にあたり、東京の大使館の開庁を受けて、5月25日より正式に領事業務が開始された[3]。このとき、旧ロシア領事館は補修が必要な状態だったため、堤倶楽部の建物が執務場所となり、1927年(昭和2年)9月まで[3]、この建物がソ連領事館とされ、「露国領事館」とも称された[4]。
その後の旧キング邸についての情報は乏しいが、建物は現存しておらず、跡地(船見町3番地[4])には集合住宅などが建っている。
脚注
- ^ a b c d e f 「函館市史デジタル版 通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 キングの来港と領事館 P1046-P1048」『函館市中央図書館デジタル資料館』函館市中央図書館。2025年10月25日閲覧。
- ^ a b c d 「函館市史デジタル版 通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 キング&シユルツ商会の設立と終焉 P1048-P1050」『函館市中央図書館デジタル資料館』函館市中央図書館。2025年10月25日閲覧。
- ^ a b 「函館市史デジタル版 通説編第3巻 第5編 「大函館」その光と影 査証官の来函とソ連領事館の開庁 P1036-P1038」『函館市中央図書館デジタル資料館』函館市中央図書館。2025年10月25日閲覧。
- ^ a b 倉田有佳「もと道南青年の家(旧ロシア領事館) 歴史的・文化的価値に係る調査報告書 (PDF)」函館市、1990年8月、2頁。2025年10月25日閲覧。
座標: 北緯41度45分59秒 東経140度42分23秒 / 北緯41.76636985度 東経140.70647175度
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