日暮里大火 (1925年)とは? わかりやすく解説

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日暮里大火 (1925年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/21 17:26 UTC 版)

日暮里大火
現場 日本
東京府北豊島郡日暮里町
発生日 1925年3月18日
15時6分 (15時6分 - 20時55分)
類焼面積 46050坪
原因 混毛機への金属異物混入による摩擦熱で機械油に引火
死者 なし
負傷者 百数十名

1925年の日暮里大火(にっぽりたいか)とは、同年3月18日に日本東京府北豊島郡日暮里町大字金杉で発生した火災である。この火災を契機として区画整理が実施された。

背景

東京府北豊島郡日暮里村は、1913年に町制が敷かれ日暮里町となった[1]。日暮里町は急激な都市化を遂げたものの、1923年の関東大震災で一面焼け野原となる[1]。震災後、日暮里は帝都復興のための大規模な区画整理事業の対象地となり、道路拡張工事や暗渠化が実施された[1]

火災の発生

1925年3月18日15時6分、日暮里町大字金杉1437(のちの東日暮里3丁目付近)にあった、比企友次郎のアサヒ半毛工場から出火した[2][3][4][註 1]。このとき工場で働いていた2名は日暮里署の取り調べに対し、作業中のガーネット混毛機に釘のようなものが落ちた結果、機械と摩擦して火花が散り、それが機械油に引火したと証言している[5]。2人は急いで消火したものの、酸素製造工場の屋根に飛び火してしまい、さらに工場内にあった3000貫から4000貫(およそ11トンから15トン)の材料にも燃え移ったという[5][6]

この日は風速13メートルの北西の強風が吹いており、警視庁消防本部も警戒するほどであった[4][註 2]。くわえて、出火現場は小さい民家や工場が密集しており、水利も悪かったため、火は燃え広がってしまった[5]。出火現場の隣家の住民は『読売新聞』の取材に対し、以下のようにコメントしている[7]

偶然にも二階の窓をあけると工場から煙が出てゐるので火事だと騒ぎ出し、近所の人達も駈けつけたが、その時にはもう火はいつぱいに燃え広がり、手のつけ様がありませんでした、それに水利が悪い上に、ポンプが来たがそれもどこへホースをすえるかそれも判らないと云ふ風で、あんなに火が広がりました[7] — 読点は引用者

火元の隣家である清和屑物工場が燃え、出火から1時間程度で周囲の200戸が全焼した[5]。また、隣町の三河島町前沼で20戸が焼けたほか、1町隔たった日暮里第五小学校、第三小学校も燃えてしまった[5]。炎は改正道路を南下して下谷区まで達し、あわや下谷区根岸にまで延焼するかと思われたが、20時55分に鎮火した[5][註 3]。この火災により、関東大震災の残存区域もほとんど全焼してしまった[5]

具体的な焼失区域について、『大正ニュース事典』は『東京日日新聞』をもとに、以下のようにまとめている[8][5]

焼失した区域は、北は日暮里元金杉1437番地の火元から北西の風に煽られて、1477番地の6棟ばかりを残し1476番地の第五小学校に飛び火し、更に第三小学校に移り西に向かい1462、1414、1421の学校裏に出で、更に改正道路まで一嘗めにし1469から1355の改正道路の方面に向かい、火は八方に広がって改正道路に添い1534、974、1093より1072に至りて、火は更に東に向かい228、233、250、279御行松の附近283番地にまで至った。一方、東南に向かった火は7時50分頃、1200番地から1234、1242に燃え広がって、根岸脳病院の裏1290番地から音無川に沿って1289、1294、1283、320、303、304、281に至り、305で中根岸との境で止まった。7時頃、第三小学校の裏の火は逆に風向きが南に変わって、1466より1419、1459、1388と北西に向かって、1361、140でようやく止まった[8][5]

消火活動

日暮里町および隣接する三河島町の消防団が直ちに出動したほか[4]、警視庁本部、各分署、出張所の消防隊が総出で消火にあたった[5]。くわえて、赤羽工兵隊、近衛兵歩兵第一連隊などが出動し、青年団や在郷軍人と協力して風下の家屋の破壊消防を行なった[5]。ただし、水利が悪い上に道も狭かったため、消火活動は難航した[5][註 4]。高野消防部長は『東京日日新聞』の取材に対し、以下のようにコメントしている[8]

どうもとんだことになつた、出火現場は郡部のそとで火事が遠く、従つて発見も遅く、道路も狭隘で、自動ポンプの活動意の如くならず、其の上水利の便が悪しく、僅かに音無川の水と下谷区上根岸町の消火栓から三十数本のホースを引いたのみで、風の変化が多く、消防上に非常な困難を感じた、殊に改正道路方面は全然水利の便がなく、赤羽工兵隊の手で破壊消防で漸く上根岸方面は延焼をまぬかれた、何分にも同方面は道らしい道がなく小さい家が密集してゐるので遂に大火になつたことは遺憾である[8] — 読点は引用者

また、坂本署を警戒本部として、西神田、錦町、南千住上野谷中、寺島、象潟などの署から約1000名の巡査が出動し、二重三重の非常線を張った[5]。なお、交通整理にあたって抜剣した巡査がおり、問題視された[10]

被害の状況

およそ46050坪[11]、2000戸が焼失しており[3][12][註 5]、第三日暮里小学校、第五日暮里小学校といった公共施設も焼失した[3]。損害見積もりは概略500万円、保険は明治、帝国などに50万円から60万円ほどと予想された[5][註 6]。『時事新報』は保険会社の損害について「焼失地域には1、2ヶ月前から多数の動産保険勧誘員が入り込んで契約を取ったばかりで、この下旬に第2回の払い込みをするはずの家も二、三百あった由で、火災保険会社の損害は場末の割には多額に上るだろうと言われている」と記している[13]

罹災者は1万人に達した[5][註 7]。死者はいなかったものの、負傷者は多数出ており、消防手や巡査も負傷した[5]。さらに、迷子も何名か発生した[8]。また、避難者たちが上野公園に殺到し、上野駅は親戚や知人を頼って鉄道で避難しようとする人々で夜遅くまで混雑した[5]。一方、現場には野次馬も多く駆けつけ、通りがかりの自動車にただ乗りする者も現れたほか、火事場泥棒も現れたという[5][14]

また、火事の最中に池袋駅から恵比寿駅にかけての電線が切れたことで、19時20分から20時まで電車が止まり、避難者たちは難儀した[7]。その結果、22時から23時の間に何本か臨時列車が運行された[6]

救護活動

日暮里尋常高等小学校、第一日暮里小学校分校、第二日暮里小学校、第四日暮里小学校などに避難所が設置された[3][6]。また、ライオンゴム工場や下谷坂本署、下谷区役所や日暮里町役場などには救護所が設置され[7][8]、第二日暮里小学校には郡医師会、滝野川医師会、日暮里医師会で構成された救護所が設置された[3]。岡田日暮里町長は救護活動の状況について、1925年3月19日の『東京日日新聞』で以下のようにコメントしている[8]

今度焼けた金杉辺は、大震災には焼失を免れたが、大正七年に一度焼失した事があります、その際は二百戸ほどでした、町としてはただ今千人分の焚き出しをして配分をしました、の方に毛布を配付するようお願ひしました、何せあの辺は労働階級の人達が多いので誠に気の毒です、この上は町としてもそれぞれ罹災民のために充分に尽くす積もりです[8] — 読点は引用者

また、警視庁救護班が日暮里尋常高等小学校に、東京府救護班が済生会診療所に出張し、罹災者の救護にあたった[3]。ほかにも、時事新報社が元金杉1096番地に借りていた空家でパンや手ぬぐいを支給したり[13]、東京市や東京日日新聞社が寛永寺で食料を配布したりした[8][6]

救護活動は活発に行われ、救護品を積んだトラックが何台も駆けつけたという[15]。青年団の1人は『読売新聞』に対し「実に今回の火事は同情を得ました、ごらんなさいあの救護のつめかけている様子を」とコメントしているほか[15]、ある警官は「大火でしたがその避難ぶりはなかなか立派でした、大震災の賜物でしょう」と述べている[15]。同様に『東京日日新聞』も「出火時刻が早かったので避難するには極めて好都合であった、風下になる町内は火の子を見て自動車や大八車に荷をまとめ日暮里駅から鶯谷、上野駅の沿線に避難し大事を取って上野公園の大師前に逃げ込むものもあった、罹災者のおおくは改正道路や下谷区役所同区小学校内に収容された」と報じている[8]

恩賜金と義捐金

1925年3月、同年12月、1926年6月には恩賜金があったほか、総額3万5204円83銭の義捐金が集まった[3]。具体的には、三井家三井八郎右衛門名義で罹災者に5000円を寄付したほか[16]朝日新聞社が1000円、パン大袋2000個、手ぬぐい1000筋を寄付した[17]。また、三越呉服店が慰問袋600袋を支給したほか、今川橋松屋呉服店が手ぬぐい1000筋を支給した[18]。ほかにも、焼失した第三日暮里小学校、第五日暮里小学校については、郡役所が内務省に陳情した結果、低利資金10万円が貸し出された[6]

なお、恩賜金や義捐金の配当等について、『新修 荒川区史』は以下のようにまとめている[3]

恩賜金配当[19]
時期 種別 人数もしくは戸数 金額
1925年4月29日 全焼 1725人 2円
半焼 229人 1円
全焼 832戸 68銭
1925年12月29日 半焼 11戸 41銭
準世帯 69戸 36銭
1926年8月25日 全焼 1075戸 38銭
半焼 11戸 27銭
準世帯 64戸 23銭
義捐金の収入内訳[19]
扱別 金額
町内扱 8517円
府扱 1万4195円70銭
郡役所扱 27円65銭
新聞社扱 714円61銭
直接扱 8390円12銭
3万1685円28銭
別途扱 3519円55銭
総合計 3万5204円83銭
義捐金の支出内訳[19]
品名 数量
醤油(缶) 2250本
醤油(大箱入) 60個
手拭 2000反
1810本
1500本
白米 24俵
木炭 47俵
漬物 34本
衣類包 215個
雑記帳 550点
義捐金配当[19]
時期 種別 人数もしくは戸数 金額
1926年6月25日 全焼 1075戸 2円
半焼 11戸 1円50銭
準世帯 64戸 1円20銭
1925年6月 236人 合計2344円20銭

また、ソビエト連邦はこの大火について同情を示し、その結果日本の外務大臣幣原喜重郎が感謝の意を示す電報を送った[20]

大火後の土地区画整理

3月18日の夜から日暮里役場で開かれた臨時町会にて、議員側からの申し出により、区画整理を行うことが決定した[21]。町会では「道路問題が急務だ」という意見が示され、後日地主会議を開催して権利問題を処理することになった[21]。また、『読売新聞』は1925年3月20日号の社説にて「区画整理により耐火建築をもって防火壁を作る案も極めて不徹底に終わっているようです。整理委員の中には『耐火建築の必要は飛行機の襲来に備うべきもので、そんな場合は何もかも最後の時だから、今ことさらそれを急ぐ必要がない』とゆう持論の人も多々見受けるが、これらの人々は単に自己の便宜のみを考えて、隣人の幸福を思わざる人々であります」と主張した[22]

関東大震災後にも区画整理事業自体は行われていたが[1]、この火災を契機として新たに「日暮里土地区画整理組合」が設立され、関東大震災の復興事業と接続した区画整理が行われた[23][24]。具体的には、1925年4月27日に東京府知事宛に組合設立認可申請が行われ、同年5月18日に認可された[9]。換地設計ののち、7月には換地予定地が決定し、8月19日に工事が着工した[9]

1926年10月31日に土地区画整理事業が竣工し、焼失区域は更生と発展を願って旭町と改称された[3][23]。なお、旭町はのちに、1932年の市郡併合による行政区割の変更に伴い、日暮里2丁目となった[3][19]。東京都荒川区教育委員会編『日暮里の民俗』は「日暮里は震災や大火によって、整然とした区割りの町づくりがなされたといっても過言ではない」と指摘している[1]

区画整理事業の経費は22万円であり[23]、東京市から5万5000円、東京府から10万円の支援があった[9][25]。また、電柱や地下埋設物については、逓信省東京電燈株式会社東京瓦斯株式会社が無償で行った[9]

1年後の火災

1926年3月19日、日暮里大火の1周年のため全市の消防隊が非常大警戒体制を敷いていたところ、高田から巣鴨におよぶ火事が発生した[26]

脚注

注釈

  1. ^ 出火したのは15時10分とする資料もある[3]
  2. ^ 同日には、大井町雑司ヶ谷でも火事が発生している[7]
  3. ^ 鎮火したのは21時10分とする資料もある[3]
  4. ^ 焼失地域はほとんどが道路幅員3メートル以下であった[9]
  5. ^ 焼失したのは1712戸とする資料や[6]、1914戸とする資料もある[9]
  6. ^ 損害見積もりは350万円とする資料もある[6]
  7. ^ 罹災者は2万人とする資料もある[7]

出典

参考文献

  • 「日暮里大火同情金募集 尚本社から取敢へず 見舞品配給」『朝日新聞 朝刊』1925年3月19日、2面。
  • 「烈風中日暮里の大火千七百余戸を全焼す 延焼六時間、三河島に達し 震災から二度目の惨禍」『朝日新聞 朝刊』1925年3月19日、11面。
  • 「日暮里焼跡に区画整理を断行 昨朝来府市の係員が 現場で大綱を決す」『朝日新聞 朝刊』1925年3月20日、6面。
  • 「本社慰問隊活動 トラツク六台で日用品配給」『朝日新聞 朝刊』1925年3月20日、7面。
  • 「日暮里大火の火事泥 盗品山をなす」『朝日新聞 夕刊』1925年3月22日、2面。
  • 「幣原外相の謝電 露国の日暮里大火同情に」『朝日新聞 朝刊』1925年3月31日、7面。
  • 荒川区地域文化スポーツ部生涯学習課荒川ふるさと文化館 編『カメラがとらえたあの日あの場所 : Arakawa photo history : 令和4年度荒川ふるさと文化館企画展』荒川区教育委員会、2022年。全国書誌番号:23763194 
  • 東京都荒川区教育委員会 編『日暮里の民俗』東京都荒川区教育委員会、1997年。全国書誌番号:98051746 
  • 「烈風中日暮里の大火 遂に二千戸を全焼す」『東京日日新聞』1925年3月19日、2面。
  • 「大火記念の警戒中に 高田から巣鴨に亘る大火」『東京日日新聞』1926年3月20日、1面。
  • 「元金杉から出火し二千数百戸を焼く」『読売新聞』1925年3月19日、3面。
  • 「社説 禍いの基を考えよ 日暮里の大火について」『読売新聞』1925年3月20日、3面。
  • 「山と積む救護品 立派な逃げ出し振りは大震火災の悲しい経験 日暮里焼跡」『読売新聞』1925年3月20日、3面。
  • 「地主会議で道路整理 大急ぎで地上権の調査 / 日暮里」『読売新聞』1925年3月20日、3面。
  • 「日暮里大火に五千円を三井家が寄付」『読売新聞』1925年3月21日、3面。
  • 「巡査の抜剣が端なく問題 日暮里大火の交通整理に 坂本署長は正当と申告」『読売新聞』1925年3月27日、3面。

外部リンク




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