放れ山古墳
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放れ山古墳 | |
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墳丘・石室開口部
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別名 | 放レ山古墳 |
所在地 | 島根県出雲市下古志町(下新宮) |
位置 | 北緯35度20分12.40秒 東経132度44分35.65秒 / 北緯35.3367778度 東経132.7432361度座標: 北緯35度20分12.40秒 東経132度44分35.65秒 / 北緯35.3367778度 東経132.7432361度 |
形状 | 円墳 |
規模 | 直径13m 高さ3m |
埋葬施設 | 両袖式横穴式石室 (内部に有縁屍床3基) |
出土品 | 金環・ガラス玉・圭頭大刀・金銅装小刀・銀装大刀・刀子・鉄鏃・馬具・須恵器 |
築造時期 | 6世紀後半-末 |
史跡 | 島根県指定史跡「放れ山古墳」 |
地図 |
放れ山古墳(はなれやまこふん、放レ山古墳)は、島根県出雲市下古志町にある古墳。形状は円墳。島根県指定史跡に指定されている。
概要
島根県東部、出雲平野南部の神戸川南岸の低丘陵(妙蓮寺山)東端上(標高約10メートル)に築造された小型の古墳である。大正年間に石室が開口し、副葬品が出土している。
墳形は円形(または方形[1])で、直径13メートル・高さ3メートルを測る[2][3]。墳丘外表で葺石・埴輪は認められていない[2]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室である。切石を使用した整美な石室で、玄室内には3基の有縁屍床を据える。石室内の副葬品としては、金環・ガラス玉・圭頭大刀・金銅装小刀・銀装大刀・刀子・鉄鏃・馬具・須恵器が出土している。
築造時期は、古墳時代後期の6世紀後半-末ごろと推定される[3]。一帯では放れ山古墳のほか妙蓮寺山古墳・宝塚古墳などの後期古墳が分布しており、神戸川北岸の今市大念寺古墳・上塩冶築山古墳などに次ぐ有力者の墓群と想定される。特に放れ山古墳は、特異な石室構造と豊富な副葬品の点で注目される[2]。
古墳域は1959年(昭和34年)に島根県指定史跡に指定されている。
遺跡歴
埋葬施設


埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されている。石室の規模は次の通り[1]。
- 石室全長:約7メートル[2]
- 玄室:長さ3.3メートル、幅1.7メートル、高さ2メートル
- 羨道:長さ2メートル以上、幅1.1メートル、高さ1.7メートル
石室の石材は、玄室では凝灰岩の切石で、羨道では小型の切石・割石。玄室の奥壁には一枚石を立てる。側壁は5段の切組積みで、北壁では基底部にやや大型の切石を置き、南壁ではやや小型の切石を使用しており、石材を持ち送りややアーチ状を呈する。天井石には自然石を架ける[3]。玄門には放柱状の石を立てて、その上に同形の石を架ける[1]。
玄室内には低い縁の有縁屍床3基を据える。1基は北壁に沿い、2基は南壁に沿う[1]。
出土品
大正年間に石室内から出土した副葬品は次の通り[1]。
- 金環
- ガラス玉
- 圭頭大刀 - 北側屍床出土。
- 金銅装小刀
- 銀装大刀
- 刀子
- 鉄鏃
- 馬具類 - 北側屍床・奥壁間出土。
- 金銅装鏡板付轡
- 素環鏡板付轡
- 鉄地金銅装雲珠・辻金具
- 須恵器 - 北側屍床・玄門間出土。
文化財
島根県指定文化財
- 史跡
- 放れ山古墳 - 1959年(昭和34年)9月1日指定。
脚注
参考文献
(記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(出雲市教育委員会設置)
- 西尾克巳「放れ山古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4-490-10260-7。
- 「放れ山古墳」『島根県の地名』平凡社〈日本歴史地名大系33〉、1995年。 ISBN 4-582-49033-6。
関連項目
外部リンク
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