押川との別れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 06:57 UTC 版)
「ウィリアム・エドウィン・ホーイ」の記事における「押川との別れ」の解説
1898年(明治31年)4月1日付けで、押川が「帝国全域で伝道を展開するため」二年間の休暇を願い出た時、少しも驚きを持って受け止められなかった。押川は院長の職に留まるが給料は半減するということで合意が成立する。 東京へ移る前に押川は「十分な給料を払って自分の代わりに任命することを願っていますが、学院憲法は宣教師の一員たる副院長が、院長不在の場合には院長の代理をするように定めています」と語る。 ホーイの解釈では、押川にとって東北学院は活動の場として余りに狭すぎた。「もはや彼(押川)から多くの奉仕を期待しませんが、これが彼を満足させる最善の途と考えます」 Ibid,Nov.6,1897.Mission Proceedings,Nov.16,1897 院長押川の名声は全国に聞こえ、押川の雄志は仙台の地に限られることなく、その視野はあるいは北海道(同志会)へ、あるいは朝鮮半島(京城学堂)へと拡がり、ついに東北学院長を辞して上京、政治や実業へと幅広い活動を展開するようになる。他方、ホーイの目も清朝末期の混乱の中にあった中国へと向かう。
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