房川渡しの由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 01:44 UTC 版)
中世の奥州街道である鎌倉街道中道(および江戸時代に整備される以前の日光街道)で、幸手から古河・小山への経路は、幸手から北東に向かい、外国府間(幸手市)から房川とよばれた旧渡良瀬川を渡り栗橋(茨城県五霞村元栗橋)から北上し、小手指(五霞村)・辺見(古河市)を通過するものであった。この渡しは房川渡し(ぼうせんのわたし)と呼ばれていた。渡河した左岸には旧栗橋村があった。そこから北上して現在の古河市へ入った。「房川渡」の名称の理由は不明であるが、言い伝えでは、栗橋宿内庵室にいた僧(法花房)がおり、小舟で渡河するものが「坊か渡し」と言われたことに由来するという。
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