忽那通著とは? わかりやすく解説

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忽那通著(くつな みちあき) ????~1579

式部少輔
◇父:忽那新右衛門尉通乗(通) 弟:忽那新右衛門尉通恭、四郎兵衛実 子:南彦四郎通具
 伊予河野氏従った水軍の将。伊予・吉田城主であったが、忽那島領したことから忽那氏に改めた伊予花瀬において安芸小早川氏率い毛利水軍戦い討死した。

忽那通著

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/29 00:01 UTC 版)

 
忽那 通著
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 天正7年4月15日1579年3月10日
官位 式部少輔
主君 河野通宣通直
氏族 忽那氏
父母 父:忽那通乗
兄弟 通著、通恭、通実
通光
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忽那 通著(くつな みちあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将河野氏の家臣。板島水軍の将。伊予国忽那山城主。

略歴

忽那通乗の子として誕生。

永禄8年(1565年)、豊後国大友義鎮が伊予に侵攻すると、河野氏の指示を受け、来島通康村上武吉らと共に大友軍を撃退した。天正元年 (1573年)、大野氏が長宗我部元親に降ると、その討伐に出陣した。天正年間には、畿内を制圧した織田信長の軍勢が中国地方にも進出し、各地で毛利氏と衝突を繰り返すようになった。通著は村上水軍らと共に毛利氏の支援を行い、大友氏の牽制のために豊後周辺にも出陣している。天正7年(1579年)、大野直之が長宗我部元親に通じて河野氏に謀反を起こすと、その鎮圧に出陣したが、花瀬城を巡る戦いにて討死した。

嫡男が幼かったため、弟・通恭が家督を継ぐが、羽柴秀吉四国攻めにおける高峠城の戦いで、小早川隆景の軍と激戦の末に討死した。弟・通実も金子城にて討死し、一族のほとんどは滅亡した。

関連項目

  • 忽那家文書


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