弟マティアスとの関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/16 08:38 UTC 版)
「ルドルフ2世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「弟マティアスとの関係」の解説
弟マティアスとの関係は、ハプスブルク家の歴史の中でも最悪だったという。元々、マティアスは宗教問題などに無策だったルドルフ2世を苦々しく思う一方、ルドルフ2世の才能にコンプレックスを抱いていた。対立を決定的にしたのは1577年、スペイン領ネーデルラントにマティアスが調整役として赴いて失敗したことだという。兄ルドルフはマティアスのウィーン帰還を許さなかった(帰国したのは1583年ルドルフ2世がプラハに首都を移動した直後)。マティアスはハンガリー貴族を利用し(これはルドルフ2世が鎮めている)、後にはボヘミアにおける貴族の支持を得て、1611年にはプラハに侵攻して、兄をボヘミア王から引きずりおろした。その後、ルドルフ2世が亡くなり帝位をマティアスが引き継ぐ。
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