平岩康重
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/08 13:27 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 天文11年(1542年)頃 |
死没 | 永禄6年(1563年)以降 |
別名 | 通称:善十郎 |
主君 | 徳川家康 |
氏族 | 平岩氏 |
父母 | 父:平岩親重、母:某氏 |
兄弟 | 親吉、正広、康重、山田半右衛門室、康長、平岩真野左衛門室、渡辺守綱室、山田内右衛門室 |
子 | 吉勝 |
生涯
家康と同年生まれであった親吉のすぐ下の弟で、天文18年(1549年)に家康が今川義元の下に送られて駿府に入ったときに親吉と一緒に同行した[1][2]。
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いの前哨戦となった家康の尾張国丸根砦攻めに兄親吉とともに従軍した[1]。
永禄6年(1563年)、三河一向一揆が蜂起した際にも家康に従って軍功があった[2]。『寛政重修諸家譜』の編纂時に兄正広の子孫が提出した家譜によると、家康に従った兄弟と袂を分かって初めは宗門に属して家康に敵対したが、許しを得て帰参したという[3]。
系譜
吉勝は犬山城主となった親吉に家臣として附属された。吉勝の嫡男吉虎は親吉の没後、尾張藩主徳川義直の直臣に編入され、新たに犬山城主となった成瀬正成に同心として附属された。子孫は2家に分かれ、いずれも200石程度を知行する御目見以上では最下級の騎馬役身分である中級藩士として続いた[2]。
参考文献
脚注
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