巌谷龍一とは? わかりやすく解説

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巌谷龍一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/25 11:59 UTC 版)

巌谷龍一(いわや りゅういち、1830年天保元年)12月 - 1900年明治33年)5月24日)は、日本の裁判官陸軍軍人肥前国武雄出身の佐賀県士族。号を玄龍という。巌谷竜一

概要

1830年天保元年)12月肥前国武雄に生まれる。幼少より武雄の医師・清水宗庵に師事して医学を志すが、のちに脱藩して京都へ上り、苦学のかたわら夜陰に按摩や阿呆陀羅経を語って学資を得たという。京都の町で高杉晋作と行き逢って意気投合し、のち長州に赴いて井上馨らと交わり、大村益次郎に蘭語を学んで洋式兵学を研鑽したと伝わる。

幕末に帰郷し、領主鍋島茂昌により身教館の監督と洋式兵術の指南を命ぜられる。戊辰戦争では茂昌に従い、武雄軍団参謀として秋田方面に出征し武雄藩の軍功に寄与した。

1871年明治4年)、佐賀県少属となるが、翌年に官を辞して上京。井上馨の推挙で大蔵省四等出仕の内命を受けるも、佐賀側の制止で就任に至らず、同年に陸軍中佐・兵学助、従六位を命ぜられ、1873年(明治6年)に正六位[1]。のち裁判評事を兼務し、1875年(明治8年)には陸軍裁判所第一課長、1876年(明治9年)4月4日に司法六等判事へ転じた[1]

同年、秋月の乱の取り調べ・裁断を担当(熊本臨時裁判長任命は12月3日)。1878年(明治11年)には大審院判事となり[1]、同年の陸奥宗光審問ではおよそ二時間の尋問で急所を衝き、禁錮5年の服罪を決定づけたと伝えられる[2]

以後、1884年(明治17年)11月14日勲六等、同12月11日に名古屋始審裁判所長、1886年(明治19年)7月8日に従五位、1887年(明治20年)11月大審院評定官(民事第二局)に就任[1]1900年明治33年)5月24日、71歳で病没。正四位・勲四等。子に巌谷孫蔵(のち京都大学教授)[1]

逸話

  • 名判事として知られ、玉乃世履の没後には「今玉乃」と称された[2]
  • 元老院幹事・陸奥宗光の西南戦争内通嫌疑を審問し、陸奥が「鳴呼、岩谷、遂に余を死せしむ」と嘆息したとの伝承が残る[2]
  • 変わり者で知られた裁判官・富永冬樹が面会に巌谷宅を訪れた際、入浴中のまま浴槽へ招き入れて応対。そのまま二人で入浴後、板の間で這い進み匍匐のまま菓子や茶を飲み初対面の挨拶を交わした。富永も「流石の俺も巌谷の応対には驚き入った」と語ったという[3]
  • 一時緒方洪庵の適塾で学び、同室の大鳥圭介が毎朝机を叩き遅起きの玄龍(龍一)を起こしたため、隣室の者がその音を時報代わりにしたという逸話が残る[4][5]

脚注

  1. ^ a b c d e 尚古房 1935, p. 594.
  2. ^ a b c 肥前古書刊行会 1926, p. 17.
  3. ^ 実業之日本社 1900, p. 176.
  4. ^ 文盛堂 1895, p. 184.
  5. ^ 有倫堂 1909, p. 104.

参考文献

  • 『佐賀先哲遺墨集』 肥前古書刊行会、1926年、17頁。
  • 『国民過去帳 明治之巻』 尚古房、1935年、594頁。
  • 『実業家奇聞録』 実業之日本社、1900年、176頁。
  • 『世界軍人談 尚武亀鑑 巻之3』 文盛堂、1895年、184頁。
  • 『人物の真髄 机上図書館第18編』 日高有倫堂、1909年、104頁。



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