山清路にまつわる民話
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 06:51 UTC 版)
「犀川 (長野県)」の記事における「山清路にまつわる民話」の解説
『仁科濫觴記』によれば、崇神天皇の末の太子であり、垂仁天皇の弟にあたる仁品王(仁科氏の祖)が都より王町(現・大町市)に下った際、安曇平(安曇野の古称)が降水時に氾濫して水浸しになることを憂い、解決を命じた。治水工事に長けた白水郎(あまこ)の長の日光(ひかる)の指導の下、工事が施工され、川幅が広げられたため、氾濫は止んだ。この時、川幅を広げた場所が、山征(さんせい:山を切り開くこと)をした場所ということで山征場あるいは山征地と名づけられた。この治水工事の話が、「泉小太郎伝説」となって今日に伝えられていると考えられている。ちなみに信府統記などでとりあげられている泉小太郎伝説は、龍によって犀川が開かれたことになっており、その開いた場所は、すべて山清路 で一致している。それらの理由から、この「山征場」あるいは「山征地」は、そのまま山清路に比定しても良いと考えられている。 このとき、会議によって「山征」の矩規(規矩準縄)を話し合った場所を「征矩規峡(せいのりそわ)」と名付けた。この征矩規峡が『安曇開基』、『仁科開基』などに見られる「犀乗沢(さいのりざわ)」に比定される。犀乗沢の場所がはっきりとどこであったかは判っていないが、『安曇開基』などによると、安曇野市豊科高家地区熊倉の東(尾入沢)界隈と書かれている。
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