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山口尚章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/18 09:35 UTC 版)

山口 尚章(やまぐち なおあき、1886年明治19年)5月6日[1] - 1952年昭和27年)4月2日[2])は、内務官僚長崎県大村市長。旧姓・冨永。

経歴

長崎県東彼杵郡千綿村瀬戸郷(現東彼杵町瀬戸郷)で、冨永新作の長男として生まれる[2]。1895年(明治28年)3月1日、母の実家、彼杵村坂本郷俵坂の山口家の養子となる[2]長崎県立長崎中学校を経て、1905年(明治38年)第一高等学校に入学したが病のため退学[2]。その後静養して[2]1911年(明治44年)早稲田大学政治科を卒業[1]1913年大正2年)に高等文官試験に合格した[1]愛媛県属、西宇和郡長、愛媛県理事官福島県理事官、佐賀県理事官、岩手県警察部長鳥取県内務部長、滋賀県内務部長、鹿児島県警察部長沖縄県内務部長、福井県内務部長、同総務部長を歴任し、1936年(昭和11年)に退官した[3]

1942年(昭和17年)に初代大村市長に就任し、1946年(昭和21年)まで在任した。その後、「翼賛大村市」のため公職追放となり[4]、俵坂の実家に戻った[2]

脚注

  1. ^ a b c 日本官界名鑑 1936.
  2. ^ a b c d e f 『水と緑と道 東彼杵町誌 上巻』1090-1091頁。
  3. ^ 人事興信録 1943.
  4. ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、733頁。NDLJP:1276156 

参考文献

  • 日本官界情報社編『日本官界名鑑 昭和十二年版』日本官界情報社、1936年。 
  • 人事興信所編『人事興信録 第14版(下)』人事興信所、1943年。 
  • 東彼杵町教育委員会編『水と緑と道 東彼杵町誌 上巻』東彼杵町教育委員会、1999年。
  • 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276156 



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