山下城 (筑後国)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 山下城 (筑後国)の意味・解説 

山下城 (筑後国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/30 06:36 UTC 版)

logo
山下城
福岡県
別名 人見城、笹城
築城主 蒲池鑑広
築城年 永正年間
主な城主 蒲池氏筑紫広門
廃城年 慶長6年(1601年
遺構 石碑
指定文化財 未指定
位置 北緯33度10分31.6秒 東経130度32分51.2秒 / 北緯33.175444度 東経130.547556度 / 33.175444; 130.547556
地図
山下城
テンプレートを表示

山下城(やましたじょう)は、福岡県八女市にあった日本の城山城)。

概要

矢部川と支流の白木川に面した標高105メートルの独立峰の山頂にあった。麓との比高およそ50メートルの山頂に本丸、その周囲に空堀を巡らせていた。尾根伝いの南東方には支城の国見岳城がある。

蒲池親広永正年間(1504年 - 1521年)に当地に居館を構え、その後蒲池鑑広が築城したという。蒲池氏大友氏に属して戦っていたが、天正7年(1579年)に龍造寺隆信の勢力下に降った。天正12年(1584年)には隆信の戦死後も龍造寺氏への忠誠を誓い、城主・蒲池鎮運(別名:蒲池家恒、鑑広の嫡男)が人質として息子・蒲池鎮行を差出している。しかし家恒はこの時点で大友氏に誼を通じており、同年7月に大友勢が筑後に侵攻し、さらに猫尾城への攻囲に立花道雪が加わると8月1日に降伏している。その後、島津軍の北進に伴って島津氏に従った。天正15年(1587年)に豊臣秀吉九州国分で蒲池氏は三池郡に知行を与えられるとともに江ノ浦城の高橋直次与力を命じられて移り、当城は筑紫広門に与えられた。同年、広門は福島城を築いて移り、慶長6年(1601年)に筑後に移封された田中吉政は当城を廃城とした。

参考文献

関連項目




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山下城 (筑後国)」の関連用語

山下城 (筑後国)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山下城 (筑後国)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山下城 (筑後国) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS