小浜光隆とは? わかりやすく解説

小浜光隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/16 16:24 UTC 版)

 
小浜 光隆
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正6年(1578年)もしくは天正7年(1579年
死没 寛永19年7月2日1642年7月28日
改名 辰千代(幼名)、光隆
別名 久太郎、民部丞、民部少輔
戒名 浄龍
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川秀忠家光
氏族 小浜氏
父母 父:小浜景隆 母:鳥羽成忠の娘
兄弟 女子(松平但馬妻)、女子(加藤忠兵衛妻)、光隆、守隆
内藤清成の娘
女子、嘉隆、女子(久永重知妻)、馬之助、利隆、直隆、女子(平野長勝妻)、女子(石丸正直妻)、女子(木原重義妻)
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小浜 光隆(おはま みつたか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将旗本。父は舟大将として仕えた小浜景隆

略歴

父同様に水軍衆を率いて徳川家に属し、関ヶ原の戦いでは東軍に加わっている。また、慶長19年(1614年)11月16日、大坂冬の陣では九鬼守隆向井忠勝千賀信親らと共に、多数を頼みに約1500漕で伝法口に攻めこんでいる。

1620年から大坂船手頭に任じられ、大坂以西の大名家が保有する船舶の監察業務を担当し、1625年には、筑前福岡藩主・黒田忠之大船建造の禁令抵触の疑いで幕府に告発している。

小浜光隆の墓(宇治市興聖寺)

子の小浜嘉隆が船手頭を継ぎ、旗本として5000石を領する。また、嘉隆の弟の小浜直隆も1609年藤堂高虎に仕え、舟奉行となっている。墓所は孫広隆の室の実家永井家代々の菩提寺宇治市興聖寺にある。





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