小浜光隆
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
生誕 | 天正6年(1578年)もしくは天正7年(1579年) |
死没 | 寛永19年7月2日(1642年7月28日) |
改名 | 辰千代(幼名)、光隆 |
別名 | 久太郎、民部丞、民部少輔 |
戒名 | 浄龍 |
幕府 | 江戸幕府 旗本 |
主君 | 徳川秀忠→家光 |
氏族 | 小浜氏 |
父母 | 父:小浜景隆 母:鳥羽成忠の娘 |
兄弟 | 女子(松平但馬妻)、女子(加藤忠兵衛妻)、光隆、守隆 |
妻 | 内藤清成の娘 |
子 | 女子、嘉隆、女子(久永重知妻)、馬之助、利隆、直隆、女子(平野長勝妻)、女子(石丸正直妻)、女子(木原重義妻) |
小浜 光隆(おはま みつたか)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、旗本。父は舟大将として仕えた小浜景隆。
略歴
父同様に水軍衆を率いて徳川家に属し、関ヶ原の戦いでは東軍に加わっている。また、慶長19年(1614年)11月16日、大坂冬の陣では九鬼守隆・向井忠勝・千賀信親らと共に、多数を頼みに約1500漕で伝法口に攻めこんでいる。
1620年から大坂船手頭に任じられ、大坂以西の大名家が保有する船舶の監察業務を担当し、1625年には、筑前福岡藩主・黒田忠之を大船建造の禁令抵触の疑いで幕府に告発している。

子の小浜嘉隆が船手頭を継ぎ、旗本として5000石を領する。また、嘉隆の弟の小浜直隆も1609年に藤堂高虎に仕え、舟奉行となっている。墓所は孫広隆の室の実家永井家代々の菩提寺宇治市興聖寺にある。
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