小代重泰とは? わかりやすく解説

小代重康

(小代重泰 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/09 23:51 UTC 版)

 
小代 重康
時代 鎌倉時代中期
生誕 不詳
死没 不詳
別名 重泰、右衛門次郎
戒名 宗心
幕府 鎌倉幕府 肥後野原庄地頭
氏族 児玉党小代氏
父母 小代重俊、多胡親時の娘[1]
兄弟 重康、増永政平、荒尾泰経、一分資重[1]
伊重、中分重行、重高、蔵満伊高[2]
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小代 重康(しょうだい しげやす)は、鎌倉時代中期の武士。名は重泰とも書く。

略歴

武蔵国入間郡小代の武士・小代重俊の子。宝治2年(1247年宝治合戦で武功を立て、戦死した毛利氏旧領の肥後国玉名郡野原庄(現・熊本県荒尾市)の地頭職が恩賞として小代氏に与えられた[3]文永8年(1271年元寇への対応のため鎌倉幕府より命じられ、建治元年(1275年)までに野原庄へと下向して以後子孫まで土着した[4]

系譜

  • 父:小代重俊
  • 母:多胡親時の娘
  • 妻:不詳
    • 男子:小代伊重
    • 男子:中分重行
    • 男子:重高
    • 男子:蔵満伊高

脚注

出典

  1. ^ a b 『新撰事蹟通考』 1971, p. 353.
  2. ^ 『新撰事蹟通考』 1971, p. 354.
  3. ^ 松本 1985, § 野原庄.
  4. ^ 小野 1993, § 小代氏館跡.

参考文献


小代重泰(しょうだい しげやす)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:25 UTC 版)

アンゴルモア 元寇合戦記」の記事における「小代重泰(しょうだい しげやす)」の解説

御家人。他の将と共に赤坂山奪還への出陣拒む。迅三郎顔見知りで、息浜合戦前に蒙古武器戦法談義をした。

※この「小代重泰(しょうだい しげやす)」の解説は、「アンゴルモア 元寇合戦記」の解説の一部です。
「小代重泰(しょうだい しげやす)」を含む「アンゴルモア 元寇合戦記」の記事については、「アンゴルモア 元寇合戦記」の概要を参照ください。

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