寒川雲晁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/24 03:59 UTC 版)
寒川 雲晁(さむかわ うんちょう、文政6年(1823年) - 明治40年(1907年)8月31日)は江戸時代末から明治の画家。名は輝久、別に泰平居とも称する。
註
- ^ 芳蔵の前戸主の戸籍謄本に墨田区厩橋3丁目の記載があり、字義どおりの「北新堀丁」なら中央区である。本所区北新町は現在の東駒形、本所(旧厩橋)にあたることから、住居は北新町と推定[3]。
- ^ 日露戦争から帰った芳蔵を雲崖が気に入り、縁組の仲立ちをしたという。
- ^ 医王寺東光院は慈覚大師の草創で、局沢(現皇居吹上御苑付近)に天長年間(824–330)に結ばれ、開基は大師の高弟光尊阿闍梨と伝わる。太田道灌築城の際本尊薬師如来を鬼門除けとし、徳川家康の入府後は盤橋御門北、小伝馬町へ、さらに振袖火事で現在地へ引寺。 慶応4年(1868年)上野戦争の折、山内を逃れた輪王寺宮を一晩匿ったため、新政府より数々の圧迫を受けた経緯がある。小伝馬町時代には、浅草寺、観理院(日枝神社別当)とともに江戸天台宗大寺三か寺に数えられた。
- ^ 列品解説26に「…画法を父および大岡雪峰に学んだ…」とあるが〈雲峰〉の誤り。
参考文献
- ^ 日本書画鑑定大事典 2006, p. 323.
- ^ 『画家一覧』永楽堂、東京、1876年12月 。電子版あり。所蔵:神奈川県立近代美術館(青木文庫)
- ^ 角川地名大辞典 1998, p. 244.
- ^ 日本人名大事典 1983, p. 172.
- ^ 日本書画鑑定大事典 2006, p. 247.
- ^ 日本書画鑑定大事典 2006, p. 229.
- ^ 絵馬図録.
[続きの解説]
- 寒川雲晁のページへのリンク