宮部宗治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/03 13:55 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動時代 | 安土桃山時代 |
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生誕 | 生年不詳 |
死没 | 没年不詳 |
別名 | 通称:肥前守 |
官位 | 肥前守 |
主君 | 豊臣秀吉→秀次→秀吉 |
氏族 | 土肥氏→宮部氏 |
父母 |
父:土肥刑部少輔、母:宮部継潤の妹 猶父:宮部継潤[要出典] |
兄弟 | 藤左衛門、宗治 |
宮部 宗治(みやべ むねはる)は、安土桃山時代の武将、大名。通称は肥前守。
経歴
土肥刑部少輔の次男で、宮部藤左衛門は兄。母は宮部継潤の妹で、継潤の甥。
天正元年(1573年)の越前国侵攻の際、継潤は朝倉家臣・三段崎勘右衛門の首実検に宗治を同道している。 その後、宗治は天正年間には羽柴秀吉に仕え家臣となった[1]。
『甫庵太閤記』では、天正16年(1588年)の聚楽第行幸の際の関白秀吉の行列の中に宮部肥前守宗治の名が見られる。
天正17年(1589年)、近江八幡山城であった羽柴秀次付きの年寄衆の中に宗治の名があり、一時的に秀次に付けられたと推測される。同年8月7日付の文書に年寄衆として田中吉政・渡瀬繁詮・宮部宗治・山内一豊・堀尾吉晴の順番で署名している[2]。この秀次付き年寄衆は全て1万石以上の大名で、秀次には「宿老共当知行弐拾三万石」が宛てられており、宗治も1万石程度の知行高があったものと推察される[3]。
天正19年11月、奥州仕置において東北に出張し、伊達政宗から苅田郡を接収して、新領主である蒲生氏郷に交付した[4][5]。
時期は不明だが、若くして大坂で亡くなったとされる[6][1][5]。[注釈 1]
脚注
注釈
- ^ 死没時の年齢は不明だが、兄の藤左衛門は継潤の養子だった羽柴秀次とは幼少の頃から親しく、成人後も茶会で同席を重ねており、ほぼ同年代と推定されている。
参考文献
- 高柳光寿; 松平年一 『戦国人名辞典』 吉川弘文館、1981年、246頁。
- 阿部猛; 西村圭子編 『戦国人名事典』(コンパクト版) 新人物往来社、1990年、755-756頁。ISBN 4404017529。
- 小和田哲男 『豊臣秀次 : 「殺生関白」の悲劇』(Kindle版) PHP研究所、2002年、79-81頁。ASIN B00N2H4MGQ(新書版456962104X)
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