安国寺留雲斎とは? わかりやすく解説

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安国寺留雲斎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/08 02:47 UTC 版)

如月寿院(安国寺留雲斎)
生没年不詳
宗旨 臨済宗
寺院 能登国安国寺正福寺か)
月舟寿桂
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安国寺 留雲斎(あんこくじ りゅううんさい、生没年不詳)は、戦国時代如月寿院とも。細川高国の庶子で稙国の兄[1][2]

概要

天文日記天文20年(1551年)10月25日条によると、留雲斎は「(能登国)安国寺、首座也、号留雲斎、常桓(細川高国)捨子」とされ、細川高国の子であったことがわかる。永正10年(1513年)頃には11歳であり、永正2年(1505年)に高国細川典厩家細川政賢の娘(正室)を娶る前に産まれた子であった(妾腹であった)ことから、細川野州家の当主となる望みを断つために僧籍に入れられて月舟寿桂の法嗣となった[3][4]

享禄年間には細川晴元に京都を追われた父・高国と連絡を取るために下向するなど政治的な活動をしていた[注釈 1]が、享禄4年(1531年)6月8日に高国が大物崩れで戦死すると京都にいられなくなり、南近畿で勢力を有していた南近畿の畠山氏の庇護下に入り、のちに能登畠山氏畠山義続に仕え安国寺(正福寺か)を拠点として活動した。天文元年(1532年)11月には越前国から、同3年(1534年)2月には能登国から三条西実隆に書状を送っている。天文20年(1551年)から同22年(1553年)にかけては使者として本願寺証如を訪ねている[5][6]

畠山義総の下では儒学や漢詩文の盛行があったが、清原宣賢や彭叔守仙だけでなく留雲斎(如月寿印)の影響もあったと考えられる[7]

脚注

注釈

  1. ^ 『実隆公記』享禄2年10月9日・11日条、『後法成寺関白記』享禄3年1月25日条

出典

  1. ^ 末柄豊「畠山義総と三条西実隆・公条父子―紙背文書から探る―」『加能史料研究』第22号 1頁-27頁(石川地域史新興研究会、2010年3月)
  2. ^ 岡田謙一「細川晴国小考」、天野忠幸編『戦国・織豊期の西国社会』(日本史史料研究会、2012年)
  3. ^ 末柄豊「畠山義総と三条西実隆・公条父子―紙背文書から探る―」『加能史料研究』第22号 1頁-27頁(石川地域史新興研究会、2010年3月)
  4. ^ 岡田謙一「細川晴国小考」、天野忠幸編『戦国・織豊期の西国社会』(日本史史料研究会、2012年)
  5. ^ 末柄豊「畠山義総と三条西実隆・公条父子―紙背文書から探る―」『加能史料研究』第22号 1頁-27頁(石川地域史新興研究会、2010年3月)
  6. ^ 岡田謙一「細川晴国小考」、天野忠幸編『戦国・織豊期の西国社会』(日本史史料研究会、2012年)
  7. ^ 末柄豊「畠山義総と三条西実隆・公条父子―紙背文書から探る―」『加能史料研究』第22号 1頁-27頁(石川地域史新興研究会、2010年3月)

関連項目




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