孟徳_(元)とは? わかりやすく解説

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孟徳 (元)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/07 09:36 UTC 版)

孟 徳(もう とく、生没年不詳)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人将軍の一人。済南府の出身。

生涯

孟徳はモンゴル帝国に初期から仕え、鄒平県令・淄州節度使を経て同知済南路事に任命された人物であった。1236年丙申)、陝西・四川方面を統括する諸王コデンが孟徳を元帥に任じ、孟徳は済南路の軍団を率いて南宋領の徐州光州攻略に功績を挙げた(第一次南宋侵攻)。1244年甲辰)、「六皇后(ドレゲネ)称制」と呼ばれる皇帝が不在の時期であったが、大王アルチダイにより万戸に任じられた。この時、濠州蘄州黄州などを攻めて功績を残している[1]

1253年癸丑/憲宗3年)からは命を受けて睢州を守り、1255年乙卯/憲宗5年)からは命を受けて海州に移った。このころ、南宋の呂文徳が攻撃を仕掛けてきたが、孟徳がこれを撃退し、太尉の劉海を捕虜とする勝利を得ている。1257年丁巳/憲宗7年)には襄陽・樊城攻めに従事し、1259年己未)には息子の孟義とともにクビライの配下に入り、鄂州攻めに加わった。1262年(中統3年)には李璮の乱鎮圧に従事したが、その後老齢を理由に引退し、息子の孟義に地位を譲った[2]

脚注

  1. ^ 『元史』巻166列伝53孟徳伝,「孟徳、済南人。国初由鄒平県令・淄州節度使累官至同知済南路事。太宗即位之八年、諸王闊端命徳為元帥、佩金符、領済南軍攻宋徐州・光州、降其衆而有其地。歳甲辰、定宗母六皇后称制、大王按只台以徳為万戸、攻濠・蘄・黄等州、積有戦功」
  2. ^ 『元史』巻166列伝53孟徳伝,「憲宗即位之三年、命徳守睢州。五年、移守海州。宋安撫呂文徳以兵擾辺、徳敗之、俘其太尉劉海。丁巳、従伯顔攻襄樊。己未、与子義従世祖攻鄂州、先登。中統三年、従征李璮。璮平、徳以老告帰」

参考文献

  • 元史』巻166列伝53孟徳伝
  • 新元史』巻153列伝50孟徳伝



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