大阪帝国大学理学部時代
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初代総長となる長岡半太郎からの二度にわたる要請により、八木自身の転任を前提に準備委員として理学部創立に尽力し、大阪帝国大学が本務となる。理学部物理学科の初代主任教授に就任する。 菊池正士の原子核物理研究を主任教授として予算的にも人的にも支援した。講師として在職していた湯川秀樹がなかなか論文の発表が進まないところを叱咤激励し、それが後にノーベル物理学賞を受賞する中間子論に関する論文につながったといわれている。
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