大江重房
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大江 重房(おおえ の しげふさ、仁治2年(1241年) - 正応5年3月12日(1292年3月31日))は、鎌倉時代の公家。文章博士・大江信房の子。官位は従三位・式部権大輔。
経歴
文章得業生から、六位蔵人・少内記を経て、康元2年(1257年)従五位下・民部権少輔に叙任される。内記を約10年に亘って務めた後、文永6年(1269年)正五位下・式部権少輔に叙任されるが、文永9年(1272年)従四位下に昇叙されると、式部権少輔を去り、文官の官職を離れた。
亀山院政期に入ると文永11年(1274年)から弘安5年(1282年)まで左京権大夫を務め、この間の建治4年(1278年)従四位上に叙せられている。その後散位となったが、弘安7年(1284年)正四位下に叙せられ、弘安10年(1287年)には式部権大輔に任ぜられた。
正応3年(1290年)従三位に叙せられ、大江氏の氏人としては大江匡房以来約180年ぶりに公卿となった。なお、従三位昇進に際して式部権大輔の官職を離れている。
正応5年(1292年)3月11日に出家し、翌12日に薨去。享年52[1]。
官歴
『公卿補任』による。
- 建長2年(1250年) 正月9日:賜学問䉼
- 建長7年(1255年) 5月6日:文章得業生
- 建長8年(1256年) 正月21日:兼因幡権少掾
- 時期不詳:六位蔵人
- 康元2年(1257年) 正月5日:課試験。2月22日:少内記。4月11日:叙爵。12月15日:民部権少輔
- 弘長3年(1263年) 正月28日:兼越中介。3月2日:従五位上
- 文永2年(1265年) 正月30日:大内記
- 文永4年(1267年) 4月9日:止大内記(依重服也)
- 文永6年(1269年) 3月27日:正五位下。12月9日:式部権少輔
- 文永9年(1272年) 正月5日:従四位下(策)。7月11日:去権少輔
- 文永11年(1274年) 12月20日:左京権大夫
- 建治3年(1277年) 正月29日:兼備前権介
- 建治4年(1278年) 正月6日:従四位上
- 弘安5年(1282年) 8月6日:去権大夫
- 弘安7年(1284年) 正月5日:正四位下
- 弘安10年(1287年) 8月5日:式部権大輔
- 弘安11年(1288年) 2月10日:兼駿河権守
- 正応3年(1290年) 正月19日:従三位、元式部権大輔
- 正応5年(1292年) 3月11日:出家。3月12日:薨去
系譜
注記のないものは『尊卑分脈』による。
- 父:大江信房
- 母:源泰総の娘
- 妻:善法寺僚清の娘[2]
- 生母不詳の子女
- 男子:大江信俊
脚注
参考文献
- 『尊卑分脈 第四篇』吉川弘文館、1958年
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