夏・商(殷)の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/11 10:04 UTC 版)
周の先王である不窋(ふちゅつ)は夏王朝の衰退に際し、稷官(しょくかん:農官)をやめて農耕に務めなくなったため、職を失い、戎,狄の間の地へ逃れた。 それから11代後の古公亶父の時代、薰育,戎,狄の3族が古公亶父の邑である豳(ひん)に侵入して財物を略奪しようとした。そこで古公亶父は素直に財物を与えた。しかし、3族はまた侵入して土地と人民を奪いに来た。これに対し、豳の民らは立ち上がって戦おうとしたが、古公亶父は責任をとって豳を去った。その後、豳の民たちは隣国の者らを伴い、古公亶父を慕って彼のいる岐山の麓までやってきた。ここで古公亶父は戎狄の風俗を卑しいとして退け、初めて城郭や家屋を築き、邑を区画して国を治めた。 帝辛(紂王)の時代、古公亶父の孫である西伯は、犬戎を討伐した。
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