地蔵院_(幸手市)とは? わかりやすく解説

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地蔵院 (幸手市)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/24 01:29 UTC 版)

地蔵院
所在地 埼玉県幸手市下吉羽124
位置 北緯36度04分04.2秒 東経139度45分55.7秒 / 北緯36.067833度 東経139.765472度 / 36.067833; 139.765472座標: 北緯36度04分04.2秒 東経139度45分55.7秒 / 北緯36.067833度 東経139.765472度 / 36.067833; 139.765472
山号 松林山
院号 地蔵院
宗派 真言宗豊山派
本尊 地蔵菩薩
創建年 文治3年(1183年
開基 政義
中興年 元亨元年(1321年)【第1次】、永享年間(1429年 - 1441年
中興 源親泰【第1次】、梶の戸御前【第2次】
公式サイト 真言宗豊山派 地蔵院 (埼玉県幸手市)
法人番号 2030005004594
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地蔵院(じぞういん)は、埼玉県幸手市にある真言宗豊山派寺院

歴史

1183年文治3年)、政義の開基である。政義は下河辺荘庄司行平の弟である。政義はある夜に霊夢を見て、子育地蔵尊高野山より勧請して、「西の坊」と呼ばれる学寮に安置したのが起源である。その後、西の坊は荒廃したが、1321年元亨元年)に領主の源親泰によって再建され、「松林山坊合寺」と名付けた。永享年間(1429年 - 1441年)、一色頼氏の妻「梶の戸御前」が頼俊阿闍梨を迎えて中興した。その際に院号として「地蔵院」が与えられた[1][2]

江戸時代は、近隣では最も大きな寺院として栄えていた。しかし1869年明治2年)の火災で庫裏を残して灰塵に帰してしまった。1901年(明治34年)に本堂が再建された。また1912年(明治45年)に同市木立にあった「正覚院」を合併している。正覚院は天慶年間(938年 - 947年)に創建された藤原秀郷を開基とする寺院であったが、明治期には半ば廃寺化していた[1][2]

交通アクセス

脚注

  1. ^ a b 埼玉県佛教会 監修『埼玉のお寺 埼玉県寺院全集』千秋社、2001年、459p
  2. ^ a b 縁起地蔵院

参考文献

  • 埼玉県佛教会 監修『埼玉のお寺 埼玉県寺院全集』千秋社、2001年

関連項目

外部リンク




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