地方での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 09:36 UTC 版)
1274年(至元11年)、遼陽行省の頭輦哥が民を苦しめているとの訴えがあったため、これを更送して廉希憲に「北京行省平章」の肩書を与えて派遣することになった。遼東一帯は東道諸王の権限が強い一帯であり、諸王の使者の命令を官更は立って拝聴しなければならないといった風習があったが、廉希憲はこのような風習を改めて諸王の横暴を抑えた。しかし、このような官吏と諸王の対立が後のナヤンの乱につながったのではないかとする説がある。 1275年(至元12年)、旧南宋領の湖広一帯を制圧したエリク・カヤは重臣を派遣してこの地を総括してもらうよう要請し、これを聞いたクビライは急ぎ廉希憲を遼東から召喚し旧南宋領に向かうよう命じた。廉憲は病身をおして南に急ぎ、現地に到着してエリク・カヤの出迎えを受けるとまず最初に現地の略奪を禁じたため現地民は安堵したという。廉希憲は南で積極的に元南末官僚と登用したため、これを難詰する者もいたが、廉希憲は「今や皆国家の臣子であるというのに、どうして彼らに疑いを持つ必要があろうか」と答えて反対論を退けたという。
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