喬琳
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喬 琳(きょう りん、生年不詳 - 784年)は、唐代の官僚。本貫は并州太原県[1]。
経歴
幼くして父を失い、貧苦にあって学問に志して、文辞に秀でて知られた。天宝初年、進士に及第し、成武県尉に任じられ、興平県尉に転じた。朔方節度使の郭子儀に召し出されて掌書記となった。ほどなく監察御史に任じられた。喬琳は才気に優れて拘束を受けず、談笑を好み、同僚を侮蔑して、作法がなかった。御史の畢耀と嘲弄しあっているうちに険悪となり、公務のことで互いに告訴しあって、巴州司戸参軍に左遷された。のちに南充県令として起用され、殿中侍御史に転じ、山南西道節度使の張献誠の下で行軍司馬をつとめた。罷免されると、剣南東川節度使の鮮于叔明の下で判官となった。検校駕部郎中・果綿遂三州刺史に転じ、御史中丞を兼ねた。入朝して大理寺少卿・国子祭酒となった。懐州刺史として出向した。喬琳はもともと張渉と仲が良く、張渉は皇太子李适の下で侍読をつとめていた。大暦14年(779年)、徳宗(李适)が即位すると、国政について多く張渉に諮問したが、張渉はさかんに喬琳の識見や才略を称賛した。そこで喬琳は御史大夫・同中書門下平章事(宰相)に任じられた。喬琳は高齢で耳が悪くなっていたため、徳宗の諮問に適切に答えられず、上奏も時節に合わなかった。宰相の位にあること80日あまりで退任し、工部尚書に任じられた[2][1]。建中元年(780年)、皇太后を迎える副使をつとめた[3]。
建中4年(783年)、朱泚の乱が起こると、喬琳は徳宗に扈従して奉天に避難した。吏部尚書となり、太子少師に転じた。興元元年(784年)、徳宗がさらに梁州・洋州に避難すると、喬琳はこれに従って盩厔にいたったが、老病を理由に追従を拒否した。数日後、髪を剃って僧となり、仙遊寺に留まった。朱泚に捕らえられ、朱泚の下で吏部尚書とされた。李晟らの官軍が長安を奪回すると、喬琳は斬刑に処された。刑に臨んで「喬琳は7月7日に生まれて、またこの日に死す。命にあらずや」と言い残した[4][1]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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