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張献誠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/11 01:47 UTC 版)

張 献誠(ちょう けんせい、723年 - 768年)は、唐代軍人本貫陝州平陸県[1]

経歴

幽州節度使の張守珪の子として生まれた。天宝末年、安禄山に捕らえられ、の官を受けた。続いて史思明に仕え、史思明が汴州を守ると、献誠は燕兵数万を率いた。宝応元年(762年)冬、唐軍が洛陽を奪回すると、史朝義は汴州に逃げ帰ったが、献誠は入城させなかった。献誠は汴州ごと部下を率いて唐に帰順し、汴州刺史に任じられ、汴州節度使をつとめた。長安に入朝し、代宗から厚い賜物を受けた。三度異動して検校工部尚書となり、梁州刺史を兼ね、山南西道観察使をつとめた。広徳2年(764年)10月、南山の反乱指導者の高玉を捕らえて献上した。永泰2年(766年)1月、剣南東川節度観察使を兼ね、鄧国公に封じられた。西山都知兵馬使の崔旰が郭英乂を殺害すると、献誠は兵を率いて梓州で戦い、崔旰に敗れて、身ひとつで逃走した。大暦3年(768年)4月、献誠は病のため私邸に帰りたいと上表し、従弟の張献恭を自身の代任として推薦した。代宗はこれを許可し、献誠は検校戸部尚書となり、知尚書省事をつとめた。8月、献誠は病のため官を辞したいと上疏した[2][3]。9月15日、長安光福里の邸で死去した。享年は46[4]

脚注

  1. ^ 旧唐書 1975, p. 3497.
  2. ^ 旧唐書 1975, pp. 3497–3498.
  3. ^ 新唐書 1975, p. 4550.
  4. ^ 唐代墓誌彙編続集 2007, p. 696.

伝記資料

  • 旧唐書』巻122 列伝第72
  • 新唐書』巻133 列伝第58
  • 大唐故張府君墓誌銘(張献誠墓誌)

参考文献




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