張献誠
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張 献誠(ちょう けんせい、723年 - 768年)は、唐代の軍人。本貫は陝州平陸県[1]。
経歴
幽州節度使の張守珪の子として生まれた。天宝末年、安禄山に捕らえられ、燕の官を受けた。続いて史思明に仕え、史思明が汴州を守ると、献誠は燕兵数万を率いた。宝応元年(762年)冬、唐軍が洛陽を奪回すると、史朝義は汴州に逃げ帰ったが、献誠は入城させなかった。献誠は汴州ごと部下を率いて唐に帰順し、汴州刺史に任じられ、汴州節度使をつとめた。長安に入朝し、代宗から厚い賜物を受けた。三度異動して検校工部尚書となり、梁州刺史を兼ね、山南西道観察使をつとめた。広徳2年(764年)10月、南山の反乱指導者の高玉を捕らえて献上した。永泰2年(766年)1月、剣南東川節度観察使を兼ね、鄧国公に封じられた。西山都知兵馬使の崔旰が郭英乂を殺害すると、献誠は兵を率いて梓州で戦い、崔旰に敗れて、身ひとつで逃走した。大暦3年(768年)4月、献誠は病のため私邸に帰りたいと上表し、従弟の張献恭を自身の代任として推薦した。代宗はこれを許可し、献誠は検校戸部尚書となり、知尚書省事をつとめた。8月、献誠は病のため官を辞したいと上疏した[2][3]。9月15日、長安光福里の邸で死去した。享年は46[4]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00320-6。
- 『唐代墓誌彙編続集』上海古籍出版社、2007年。ISBN 978-7-5325-2781-6。
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