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張献恭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/10 22:40 UTC 版)

張献恭(ちょう けんきょう、生没年不詳)は、唐代官僚軍人本貫陝州平陸県[1]

経歴

幽州節度使の張守珪の弟の張守瑜の子として生まれた。軍功を重ねて太常卿に試用され、右羽林将軍を兼ねた。大暦3年(768年)、従兄の張献誠に代わって梁州刺史となり、御史中丞を兼ね、山南西道節度観察使をつとめた。大暦12年(777年)7月、吐蕃の1万人あまりの兵を岷州で撃破した。建中2年(781年)1月、検校兵部尚書を加えられ、東都留守をつとめた。建中3年(782年)1月、太府卿・容州刺史・本管経略招討使となった。建中4年(783年)7月、渾瑊・盧杞・段秀実とともに長安の西に壇を築いて吐蕃の尚結賛と会盟した。興元元年(784年)6月、検校吏部尚書に転じた。徳宗が盧杞を饒州刺史に移そうとすると、給事中の袁高がこれに反対した。献恭は袁高の意見を至当なものと言上したが、徳宗は聞き入れなかった。献恭はさらに「袁高は陛下の一良臣」と上奏した。徳宗は宰相の李勉らを顧みて「朕は盧杞に一小州の刺史を授けたいのだが、いけないのか」というと、「陛下は大州の刺史を授けることもおできになりますが、どうして士庶を失望させられましょうか」と答えた[2][3]

子に張煦があり、夏州節度使に上った[4][5]

脚注

  1. ^ 旧唐書 1975, p. 3497.
  2. ^ 旧唐書 1975, p. 3498.
  3. ^ 新唐書 1975, p. 4550.
  4. ^ 旧唐書 1975, p. 3499.
  5. ^ 新唐書 1975, p. 4551.

伝記資料

参考文献




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