厳虎、王晟らとの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:29 UTC 版)
「孫策の江東平定」の記事における「厳虎、王晟らとの戦い」の解説
孫策が会稽郡を攻略したとき、広陵郡海西に駐屯していた下邳の名族である陳瑀は呉郡太守を自称し、孫策の領地を奪取せんと企てて、呉郡南で一大勢力を築いていた厳虎と同盟を結んだ。孫策は、陳瑀が銭塘に出てくると呂範・徐逸を海西にやって陳瑀を攻撃させた。陳瑀は大敗し、大将陳牧は呂範に討たれ、軍民合わせて4,000人あまりを孫策に奪われた。一方、厳虎は弟の厳輿を和睦の使者として孫策のもとへ送ったが、その場で厳輿が孫策に殺されてしまったために意気喪失し、余杭にいた許昭の下に落ち延びた。 また、呉郡烏程県の人の鄒他・銭銅や前合浦太守だった嘉興県の人の王晟たちがそれぞれ一万余の軍勢を率いて孫策に抵抗した。孫策は自ら討伐に向かい、これらを撃破した。この時生母の呉氏が「王晟どのは、かつてお前のお父上とは家族ぐるみで挨拶するほどの親しい仲でした。彼の子弟たちはこの世になく、彼だけが残っています。お父上の旧友の誼として、彼一人でも見逃しておくれ」といったため、孫策は母の言葉に従い、王晟は見逃して、その他の鄒他・銭銅とその一族は皆殺しの刑に処した。
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