北匈奴の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 05:42 UTC 版)
その後、北匈奴はしばしば漢の辺境を荒らしては漢と南匈奴に討たれたため、次第に衰退していった。章和元年(87年)、東胡の生き残りである鮮卑が北匈奴の左地(東部)に入って北匈奴は大敗し、優留単于(中国語版)を斬り殺された。更に飢饉・蝗害にも見舞わされ、多くの者が南匈奴へ流れていった。永元元年(89年)、南匈奴の休蘭尸逐侯鞮単于(在位:88年 - 93年)が北匈奴討伐を願い出たため、漢は征西大将軍の耿秉と車騎将軍の竇憲と共に北匈奴を討伐させ、北単于(中国語版)は稽落山の戦い(英語版)で大敗した。翌永元2年(90年)、休蘭尸逐侯鞮単于は使匈奴中郎将の耿譚と共に北単于を襲撃し、その翌年(91年)にも右校尉の耿夔(中国語版)の遠征で北単于を敗走させたため、遂に北匈奴は行方知れずとなり、中華圏から姿を消した。
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