前野時正とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 前野時正の意味・解説 

前野時正

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/27 09:38 UTC 版)

 
前野時正
時代 戦国時代
生誕 応永32年(1425年
死没 文明16年5月13日1484年6月6日
別名 通称:右馬三郎
官位 馬寮 - 右馬
主君 織田敏信
氏族 良岑氏流前野氏
父母 父:前野綱宗、母:不詳
兄弟 時正、女、女
梶原景綱娘
前野長義、前野阿久、前野康正、前野義広
テンプレートを表示

前野 時正(まえの ときまさ)は、戦国時代日本武将土豪前野家十代目当主[1]織田伊勢守家の家臣[1][2]

来歴

尾張国の土豪である前野家に前野綱宗の子として応永32年(1425年)に生まれた[1]前野右馬三郎時正を名乗った[1]。梶原景綱の娘を妻とする[2]。父の綱宗の主君である敏広が上洛する際には、綱宗の代理として上洛のお供をしたという[3]

嘉吉3年(1443年9月13日、父の綱宗が死去すると、前野家の家督を継いで当主となり、前野村八屋敷に八屋敷塁を築いた[2]。当時の織田伊勢守家当主である織田敏信の家臣となったのち、奉行役を仰せ付けられた[2]。妹2人を敏信家臣である佐久間与左衛門、中島七左衛門に嫁がせるなど、敏信家臣団との関わりを強くした[2]美濃国斎藤妙椿との戦いでは、先陣を切って敵将の首を取るなど、比類なき高名があったといわれる[2]

文明16年(1484年5月13日、死去した[2]

前野氏

前野氏は、桓武天皇の子の良岑安世を始祖とする良岑氏の系統で、良岑高成(立木田高成)の子である高長が尾張国丹羽郡前野村(現在の愛知県江南市前野町から大口町辺り)に移り住んで前野を自称し、その曽孫である前野時綱が正式に名乗ったのが始まりとされている。

前野家は、高康の代から織田家に仕え、時正、長義、宗康の三代にわたって岩倉織田家の軍奉行を務めるなど、岩倉織田家(織田伊勢守家)内で地位と名声を獲得していった。

系譜

  • 父:前野四郎兵衛綱宗
  • 母:不詳
    • 本人:前野時正
    • 妻:梶原佐衛門尉景綱娘
      • 男子:前野小二郎長義
      • 女子:前野阿久(青木伝左衛門室)
      • 男子:前野康正
      • 男子:前野長十郎義広

脚注

出典

  1. ^ a b c d 前野家古文書『武功夜話』
  2. ^ a b c d e f g 『尾張国丹羽郡稲木庄前野村前野氏系図』
  3. ^ 『尾州稲木庄前野村由緒書』

参考資料

  • 吉田蒼生雄『武功夜話』新人物往来社、1987年

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  前野時正のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「前野時正」の関連用語

前野時正のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



前野時正のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの前野時正 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS