前廃帝 (南朝宋)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 前廃帝 (南朝宋)の意味・解説 

前廃帝 (南朝宋)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/14 13:06 UTC 版)

前廃帝 劉子業
第5代皇帝
王朝
在位期間 大明8年5月23日 - 景和元年11月29日
464年7月12日 - 466年1月1日
都城 建康
姓・諱 劉子業
法師(小字)
諡号
廟号
生年 元嘉26年1月17日
449年2月25日
没年 景和元年11月29日
466年1月1日
孝武帝
文穆皇后王氏
后妃 路皇后
陵墓 丹陽郡秣陵県南郊壇西
年号 永光 : 465年
景和 : 465年

前廃帝(ぜんはいてい)は、南朝の第5代皇帝子業、小字は法師。

生涯

元嘉26年(449年)正月、武陵王劉駿の長男として生まれた。父の劉駿は江州刺史として尋陽に出向したが、子業は建康にとどまっていた。

元嘉30年(453年)、劉劭文帝を殺害して帝を称すると、子業は侍中下省に監禁され、殺害されそうになったことも一再ではなかったが、なんとか無事に切り抜けた。孝武帝(劉駿)が即位すると、孝建元年(454年)正月に皇太子に立てられた。大明8年(464年)閏5月、孝武帝が崩御すると、子業は皇帝に即位した。

景和元年(465年)8月には自ら衛兵を率いて劉義恭柳元景顔師伯らを殺害し、9月には劉子鸞に死を賜り、11月には何邁を獄死させ、沈慶之を殺害するなど、宗室や高官を次々と処断した。また母の王太后が危篤の際には、「病人のところには鬼が出る」などと称して見舞いにもいかなかった。このような行動のために子業は宋朝における人望を失った。

叔父の湘東王劉彧が腹心の阮佃夫・李道児らと謀って、この年の11月29日に後堂で子業を殺害した。

后妃

  • 皇太子妃:何令婉(贈献皇后)
  • 皇后:路皇后
  • 側室:貴嬪劉英媚 - 文帝の十女(叔母に当たる)の新蔡公主、謝を改姓した。
  • 側室:羊良娣 - 南中郎長史羊瞻の娘
  • 側室:袁保林 - 宜都郡太守袁僧恵の娘

登場作品

テレビドラマ

伝記資料

  • 宋書』巻7 本紀第7 前廃帝
  • 南史』巻2 宋本紀中第2 前廃帝
先代
孝武帝
宋(劉宋)皇帝
第5代:464年 - 465年
次代
明帝



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「前廃帝 (南朝宋)」の関連用語

前廃帝 (南朝宋)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



前廃帝 (南朝宋)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの前廃帝 (南朝宋) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS