分県騒動とのかかわり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 05:08 UTC 版)
1876年(明治9年)に松本を県庁所在地とする筑摩県が廃止されると、以後、松本町民(当時)はことあるごとに「県庁が北に偏りすぎている」として松本への移転を叫ぶようになった。木下の帰郷後の1890年(明治23年)、「移庁建議書」が県議会に上程され、否決されると、町の世論は「移庁論」から、筑摩県の再設置を求める「県分割論」へと変わった。 木下は当初、移庁論を積極的に推進したが、斯様な世論のすり替わりに対しては痛烈な批判をした。旧筑摩県全体ではなく、松本のみの都合を考えた「我田引水」とみたからである。 彼の言論は反発を呼び、松本の民衆から石を持って故郷から追い出された。この事件は地元住民の視野や価値観の狭隘さが如実に現れたもので、石川安次郎宛の手紙でも「松本の人が木を見て森を見なかったのは、山河に隔てられて狭いところでしか物事を考えられなかったから」としている。しかしこのことは、木下を一地方都市に留まらせずに中央の言論界で活躍させるきっかけを作ったといえる。
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