内部対立と衰退・消滅へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:29 UTC 版)
「日本共産党(日本のこえ)」の記事における「内部対立と衰退・消滅へ」の解説
こうして新たな党派として「日本のこえ」が結成される運びとなったが、1967年1月の総選挙で志賀が落選すると党内対立が表面化した。10月には神山・中野が離脱し、翌1968年1月に党名から「日本共産党」を取り除いた日本のこえに改称した。これは志賀が将来の復党を睨んで、分派の存在を認めない日本共産党に配慮するための措置だったとされる。そして同年、参院選で改選を迎えていた鈴木は出馬を断念し、党所属の国会議員が消滅する結果となった。1960年代には反志賀派党員が離党して日本のこえ(左派)を結成し、その後社会主義革新運動、統一有志会などと合流し共産主義労働者党を結成している。 1977年、こえ派は「平和と社会主義全国委員会」と改称したが、1979年になって日本共産党が、それまでこえ派との組織的関係を維持してきたソ連共産党との関係を修復してしまうと影響力を大きく失い、党としては消滅への道をたどった。
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