元敬王后とは? わかりやすく解説

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元敬王后

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/26 16:50 UTC 版)

元敬王后
원경왕후
朝鮮王妃
彼女の陵墓である獻仁陵
在位 建文3年1月10日 - 永楽16年8月10日
1401年1月24日 - 1418年9月9日
別称号 静妃

別称 厚徳王大妃、元敬王太后[1]
出生 至正25年7月11日
1365年7月29日
高麗開京、鉄洞
死去 永楽18年7月10日
1420年8月18日
朝鮮漢城府寿康宮別殿
埋葬 献陵
配偶者 太宗
子女 譲寧大君
孝寧大君
世宗
誠寧大君
氏族 驪興閔氏
父親 驪興府院君
母親 三韓国大夫人宋氏
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元敬王后閔氏(げんけいおうこう・びんし/ウォンギョンワンフ・ミンシ、1365年7月29日 - 1420年8月18日)は、李氏朝鮮第3代王・太宗の正妃。本貫驪興閔氏

生涯

閔氏は高麗末期、閔(びん・せい)の娘として開京(現・開城)で生まれ、実家は儒教の名門であった。17歳のころ、将軍でのちに朝鮮の初代王となる李成桂の五男・芳遠と結婚、当初は夫婦仲が良好で4男4女を儲けた。彼女は夫とともに朝鮮建国に貢献し、政敵に狙われていた芳遠を暗殺の危機から救い、政権奪還に成功させた。

1400年、芳遠は第3代王・太宗に即位し、閔氏は王后に就いた。しかしそれを引き換えに彼女の不幸な後半生の始まりであった。太宗は後宮を多数抱えたことで夫婦仲が悪化、太宗による外戚勢力一掃で弟たち四兄弟が粛清され、世子(のちの譲寧大君)の不品行に悩まされ、さらに自分の廃位の危機に立たされた。しかし太宗は彼女の功績を顧み、尊厳を守った。だが不幸は続き、溺愛していた四男・誠寧大君が天然痘で14歳で夭折し、その死を悲しんだ。ただ王后にとっての幸福は三男・忠寧大君が第4代・世宗として即位したことである。1418年太宗の譲位に伴って王大妃となったのち、1420年、薨去。

出典

  • 『王妃たちの朝鮮王朝』 尹貞蘭 著、金容権 訳 日本評論社 2010年
  • 『朝鮮王宮 王妃たちの運命』 康煕奉 著 実業之日本社 2011年

登場作品

脚注

先代
定安王后
朝鮮王妃
在位:1401年 - 1418年
次代
昭憲王后
先代
定安王后
朝鮮大妃
在位:1418年 - 1422年
次代
定順王后



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