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佐藤匡玄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/02 16:24 UTC 版)

佐藤 匡玄
人物情報
生誕 1902年5月19日
愛知県豊橋市東田町
死没 (1993-10-07) 1993年10月7日(91歳没)
国籍 日本
出身校 京都帝国大学文学部支那哲学科
学問
研究分野 東洋学
研究機関 東方文化研究所
建国大学
愛知学芸大学
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佐藤 匡玄(さとう きょうげん、1902年5月19日 - 1993年10月7日)は、日本の東洋学者、教育者。第2代愛知学芸大学(現・愛知教育大学)学長、東方文化研究所研究員、 建国大学助教授などを務めた。

経歴

愛知県豊橋町または豊岡村に生まれる(現在の豊橋市東田町)[1]京都帝国大学文学部支那哲学科卒業。1935年(昭和10年)、第三高等学校講師となる。

1938年(昭和13年)から2年間、文部省文化事業部在支特別研究員として中国に留学した。1940年(昭和10年)、東方文化研究所研究員を命ぜられる。1941年(昭和16年)、満州国建国大学助教授に就任。東洋文化の解明に学究的情熱を傾注した[1]

終戦まで建国大学に在職。1949年(昭和24年)に発足した愛知学芸大学(現・愛知教育大学)の教授となり東洋学を担当。1957年(昭和32年)4月17日、論文「論衡の研究 」により京都大学文学博士号を授与[2]。厚生部長、学生部長を歴任。

1959年(昭和34年)5月15日、同大学学長選挙の決選投票が行われる。候補者は3選を狙う内藤卯三郎と佐藤。投票資格のある166人(名古屋分校63人、岡崎分校103人)が投票を行い、佐藤86票、内藤78票、無効2票で佐藤が当選した[3]6月14日、第2代学長に就任。1963年(昭和38年)6月13日、学長を退任[4]1965年(昭和40年)、同大学名誉教授に就任。

1993年(平成5年)10月7日、死去。91歳没。

著書

脚注

  1. ^ a b 宮川倫山編『全岡崎知名人士録』東海新聞社、1962年6月1日、53頁。 
  2. ^ 論衡の研究 : 1957|書誌詳細|国立国会図書館サーチ
  3. ^ 『東海新聞』1959年5月、2面、「学大学長に佐藤匡玄氏(学生部長) 決選投票で内藤現学長敗る」。
  4. ^ 歴代学長|大学概要2015|愛知教育大学



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