伊豆原麻谷とは? わかりやすく解説

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伊豆原麻谷

江戸後期画家三河生。名は迂、通称別号松谷10才のとき名古屋出て曹洞宗の僧となるが、画を好んだため還俗長崎清人方西園費晴湖学んだのち京に出て中林竹洞山本梅逸と共に画名をあげた。画は気韻尊んだ万延元年1860)歿、83才。

伊豆原麻谷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/20 04:22 UTC 版)

伊豆原麻谷「蓬莱宮闕図」

伊豆原 麻谷(いずはら まこく、安永7年5月5日1778年5月30日) - 万延元年6月6日1860年7月23日))は、江戸時代後期、三河国加茂郡莇生村(現在の愛知県みよし市)出身の文人画家。名は迂、字は大迂・参賛、通称は橘造。麻谷は号。麻谷が晩年に使用した「原迂参瓚」印の「瓚」字は元王朝末期の画家・倪瓚の名にちなんだもので、別号の「雲林山人」も、倪瓚の号からとったものである[1]。中京の「歳寒三友」の一人とされ(略歴を参照)、江馬細香貫名海屋をはじめとする笑社の社友でもある[2]

略歴

安永7年(1778年)5月5日、三河国加茂郡莇生村西山(現在の愛知県みよし市)の大工職・伊豆原喜六の三男として生まれる[3][4]

天明元年(1787年)、10歳のとき、名古屋禅寺町某寺へ入って徒弟となり、読経の合間に画を描くことを楽しみとしていた。麻谷を得度した師僧が、「わしよりも画が上手に描けたら、描くことを禁じない」と言って四君子を描いた。この和尚も画心のある人だったが、麻谷の描いた画はそれを上回るものであったという[5]。麻谷はその後も絵を描き続け、16歳になると還俗して京都へ上った。

寛政9年(1797年)、20歳のとき、長崎へ游学して方西園費晴湖に師事し、9年間におよぶ古画臨摸の末、清人直伝の画技を修得する[5]

文化4年(1807年)、30歳のときに京都へ戻り、中林竹洞山本梅逸と「歳寒三友」の契りを交わしたと伝えられる。俗説ではそのために麻谷が一時期「松谷」と号を改めたという[6]。しかしながら、麻谷の画は純然たる中国の古画にもとづく画法で描かれており、南宗画論にいう「気韻」を重んじて「形似」を重んじない画風であったので、竹洞や梅逸のようにもて囃されることもなかった[7]。しかしながら、鉄翁祖門の門人・倉野煌園が輯録した『鉄翁禅師画談』に紹介されるように、少なくとも当時南宗画のメッカであった崎陽において、非常に評価された文人画家であったことを忘れてはならない[8]

文政3年(1820年)、43歳のときに京都を去って大阪に出て、その後は各地を放浪した後、文政10年(1827年)、50歳のときに名古屋に帰り、田部井竹香はこのときに「麻谷」へ復号したと述べている[7]

天保7年(1836年)、59歳のとき、京都東福寺にて浦上春琴山本梅逸とともに「通天橋図」を描いており、嘉永6年(1853年)の秋、再度「通天橋図」(文人画研究会蔵)を製作している[9]

弘化元年(1844年)、67歳のときに江戸の書肆雁金屋で目にした「蘭亭図模巻摺帖」が強く印象に残り、その後一年間のイメージトレーニングを経て、ついに「蘭亭図」を製作[10]。嘉永4年(1851年)、74歳のとき、長崎を訪れて「長崎真景図」(個人蔵)を画き、嘉永7年(1854年)、77歳のとき、莇生村へ戻る。

万延元年(1860年)6月6日、83歳にて没。現在の名古屋市中区にある正福寺に葬られた。その門人に牧野練石・林稼亭らがいる。

代表作

脚註

  1. ^ 特別展・郷土の画人『伊豆原麻谷 名品展』(三好町立歴史民俗博物館 1993)63頁・註10参照。
  2. ^ 『頼山陽全書』全伝の「師友及關涉諸家生歿」にその名がみえる。笑社については『笑社論集』(文人画研究会 2021年)所収「笑社記」の解説を参照。
  3. ^ 『森銑三著作集』第四巻所収「麻谷に与えた竹洞の書簡」中央公論社、1989年
  4. ^ 田部井竹香『古今中京画談』168頁。
  5. ^ a b 田部井竹香『古今中京画談』169頁
  6. ^ 田部井竹香『古今中京画談』169頁に説くように、たしかに麻谷が号を「松谷」と改めることで、松谷・竹洞・梅逸の三人で「歳寒三友」を象徴する「松竹梅」とはなるが、これまで「松谷」と題した画幅は見つかっていない。
  7. ^ a b 田部井竹香『古今中京画談』170頁
  8. ^ 倉野煌園輯録『鉄翁禅師画談』鴻盟社、1885年の緒言に「尾張ニハ麻谷・梅逸、美濃ニハ秋水・杏村・細香・訥斎」と述べている。
  9. ^ 伊豆原麻谷筆「通天橋図」の自画賛による。
  10. ^ 文人画研究会編『読画塾』第3号(14頁)にみえる共箱の解読箇所を参照。
  11. ^ 文人画情報誌『読画塾』第4号(文人画研究会 2013年)31~33頁に画幅掲載、画讃についての解説がある。
  12. ^ 文人画情報誌『読画塾』第3号(文人画研究会 2013年)12頁に画幅掲載、14~20頁に画讃などについての詳細な報告がある。
  13. ^ みよし市立歴史民俗資料館編『南画家 伊豆原麻谷とその時代』(みよし市立歴史民俗資料館 2015年)15頁に画幅掲載。また42頁に「この時期の麻谷作品には明末の画家の影響があると思われる。嘉永5年(1852)に描かれた「酔翁亭図」には、麻谷自身の箱書が付随し、そこに「因明人之図製」とあることが、それを裏付ける」とある。

参考文献

  • 森銑三『森銑三著作集』第四巻所収「麻谷に与えた竹洞の書簡」(中央公論社 1989年)
  • 田部井竹香『古今中京画談』(興風書院 1911年)
  • 名古屋市役所編『名古屋市史』人物編(名古屋市役所 1934年)
  • 伊東信『濃飛文教史』(博文堂書店 1935年)
  • 名古屋市博物館編『尾張の絵画史 南画』(名古屋市博物館 1981年)
  • 服部徳次郎『愛知書家画家事典』(愛知県郷土資料刊行会 1982年)
  • 吉田俊英『尾張の絵画史研究』(清文堂 2008年)
  • 許永晝『読画稿』(文人画研究会 2015年)
  • みよし市制施行記念 秋季特別展『没後150年 南画家 伊豆原麻谷~精密・気韻・異端~』(みよし市立歴史民俗資料館 2010年)

関連項目

外部リンク



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