今井兼利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/01 14:59 UTC 版)
今井 兼利(いまい かねとし、天保6年(1835年) - 明治23年(1890年)9月11日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。鹿児島県(旧薩摩藩)出身。西南戦争に従軍し、その後陸軍工兵局長、陸軍戸山学校長、第七旅団長などを歴任した。子に今井兼昌。
概要
鹿児島県士族として生まれ、明治維新後に陸軍創設期の工兵部門で活躍した。工兵第一方面堤理として各地の軍用施設整備を指揮し、西南戦争では木場をはじめ各地で政府軍の工兵指揮官として従軍した。戦功により勲四等旭日小綬章を授与され、年金180円を賜る[1]。
のちに工兵局長、工兵会議議長、陸軍戸山学校長などを歴任。明治16年(1883年)には陸軍少将に昇進し、近代陸軍の工兵制度確立に貢献した[2]。
行軍中にコレラを患い死去[2]。墓所は大阪市の真田山陸軍墓地。
経歴
- 明治7年(1874年)11月30日 - 工兵第一方面堤理
- 明治11年(1878年)11月21日 - 陸軍大佐に昇進
- 明治11年12月26日 - 第4局副長
- 明治12年(1879年)10月14日 - 工兵局長
- 明治15年(1882年)3月1日 - 参謀本部海防局長
- 明治16年(1883年)2月1日 - 陸軍少将・工兵会議議長
- 明治18年(1885年)5月21日 - 陸軍戸山学校校長
- 明治19年(1886年)7月10日 - 歩兵第七旅団長に就任
- 明治23年(1890年)9月16日 -死去
教育事業
明治15年頃、今井は大阪鎮台の幹部として軍人親睦団体「偕行社」の設立に尽力した。明治20年1月の大阪偕行社開社式では、幹事長として祝辞を述べた。当時、大阪鎮台司令官の高島鞆之助とともに教育問題を協議し、軍人教育の在り方を模索する中で「学校設立こそが根本的解決である」との認識を共有した。この議論を契機に、明治21年(1888年)には大阪偕行社隣地に追手門学院小学校が創設された[3]。
逸話
今井は第八旅団長時代、部下将校らと奥州で狩猟を行った際、鹿を仕留めたのを機に宴を開いた。酒を燗しようとした将校を制し、「軍人たるものが燗酒を飲むようでは非常の際に役に立たぬ、冷酒をやれ」と命じたが、その後こっそり台所へ行き「俺だけには燗酒を持ってこい」と頼んだという逸話が伝わる[4]。
脚注
- ^ 幕末維新人名辞典 1994, p. 131.
- ^ a b 陸海軍将官人事総覧 陸軍編 1993, p. 15.
- ^ 百年志 1988, p. 78.
- ^ 日本及日本人8月1日号 1925, p. 95.
参考文献
- 『陸海軍将官人事総覧 陸軍編』 芙蓉書房出版、1993年、15頁。
- 『幕末維新人名辞典』 新人物往来社、1994年、131頁。
- 『百年志』 追手門学院小学校、1988年、78頁。
- 『日本及日本人』 政教社、1925年8月1日号、95頁。
| 軍職 | ||
|---|---|---|
| 先代 奥保鞏 |
1886年 - 1890年 |
次代 山根信成 |
| 先代 堀江芳介 |
1885年 - 1886年 |
次代 (欠員→)堀尾晴義 |
| 先代 (新設) |
1883年 - 1885年 |
次代 品川氏章 |
| 先代 (新設) |
1874年 - 1878年 |
次代 中村重遠 |
| 先代 (新設) |
1874年 - 1875年 |
次代 品川氏章 |
- 今井兼利のページへのリンク