井上登 (裁判官)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 井上登 (裁判官)の意味・解説 

井上登 (裁判官)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/19 02:30 UTC 版)

井上 登(いのうえ のぼり、1885年明治18年〉4月10日 - 1971年昭和46年〉7月26日)は、日本最高裁判所判事千葉県出身。

経歴

井上義行の息子として生まれる[1]1913年(大正2年)3月に東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業[2]1917年(大正6年)に判事となり、1927年(昭和2年)12月に東京控訴院判事、1933年(昭和8年)に大審院判事、1937年(昭和12年)に司法省の初代調査部長となる[2]1939年(昭和14年)から再び大審院判事を務め、在官中は慶応明治専修大学で民事法を講義した[2]

裁判官任命諮問委員会による諮問の結果、1947年(昭和22年)8月に最高裁判所判事に就任。三鷹事件など刑事事件の裁判の最前線で活躍した。開廷日に法廷に遅れることもしばしばで、そのたびに書記官が玄関まで法服を持って出迎えたという伝説がある[2]1955年(昭和30年)4月に定年退官。

1956年(昭和31年)から1961年(昭和36年)の間、日本野球機構(プロ野球統括団体)の第2代コミッショナーを務め、米田哲也阪急阪神の二重契約問題を裁定するなど[3]、法律家としての知見を活用し、プロ野球の発展に貢献した。1964年(昭和39年)4月に勲一等瑞宝章を受章した。1965年(昭和40年)に特別表彰で、野球殿堂入りした。

1971年(昭和46年)7月26日、肺気腫のため、東京都目黒区東邦大附属大橋病院で86歳で死去した[4]

脚注

[脚注の使い方]

出典

  1. ^ 『昭和十一年度版 帝国人事大鑑』帝国日日通信社、1935年、補遺45頁。
  2. ^ a b c d 野村二郎 1986, p. 24.
  3. ^ 【勇者の物語~「虎番疾風録」番外編~田所龍一】(45)阪急に軍配 米田の希望 裁定前に聞いていた産経新聞 2020年8月11日
  4. ^ 野村二郎 1986, p. 25.

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「井上登 (裁判官)」の関連用語

井上登 (裁判官)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



井上登 (裁判官)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの井上登 (裁判官) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS