于琮
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于 琮(う そう、生年不詳 - 881年)は、唐代の官僚・政治家。字は礼用[1]。本貫は京兆府高陵県。
経歴
于敖の子として生まれた。進士に及第し、左拾遺に任じられた[2][1]。大中12年(858年)、秘書省校書郎に任じられた。宣宗の娘の広徳公主を妻に迎え、銀青光禄大夫の位を加えられ、左補闕となり、駙馬都尉に任じられた[3]。咸通年間、水部郎中から翰林学士となり、中書舎人に転じた。兵部侍郎となり、判戸部事をつとめた[4]。咸通8年(867年)、同中書門下平章事(宰相)となった[5]。咸通13年(872年)、韋保衡に誣告されて、検校司空・襄州刺史として出され、山南東道節度観察等使をつとめた[6]。三度左遷されて韶州刺史となった[4]。のちに岳州刺史に転じた。咸通15年(874年)9月、太子少傅となった。11月、検校尚書左僕射となり、襄州刺史・兼御史大夫・山南東道節度観察等使をつとめた[7]。
広明元年12月(881年1月)、黄巣の反乱軍が長安を占領すると、僖宗は成都府に避難したが、于琮は病のため従うことができなかった。黄巣が皇帝を僭称すると、于琮を宰相として起用しようとした。于琮は病を理由に固辞し、殺害された[2][4]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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