韋保衡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/03 03:17 UTC 版)
韋 保衡(い ほこう、生年不詳 - 873年)は、唐代の官僚・政治家。字は蘊用。本貫は京兆府[1][2]。
経歴
武昌軍節度使の韋愨の子として生まれた。韋元貞の孫にあたる。咸通5年(864年)、進士に及第した。官を歴任して起居郎に任じられた。咸通10年(869年)1月、懿宗と郭淑妃のあいだの娘の同昌公主を妻に迎えた。ほどなく保衡は翰林学士となり、郎中に転じ、正式に中書舎人・兵部侍郎に任じられた[1][2]。咸通11年(870年)、本官のまま同中書門下平章事(宰相)となった[3][4]。さらに門下侍郎・尚書右僕射に進んだ[2]。
保衡は恩顧と権勢をたのんで、気に入らない者は必ず排斥した。王鐸や蕭遘を追放し、楊収や路巌を陥れた。特進となり、扶風県開国侯に封じられ、集賢殿大学士を加えられた。8月に同昌公主が死去すると、以後は保衡に対する懿宗の寵遇は薄くなっていった[1][2]。咸通13年(872年)、保衡は司空となった[5]。咸通14年(873年)8月、司徒となった。9月、かねてから保衡に恨みを抱いていた者がかれの悪事を暴き、保衡は賀州刺史に左遷された[6]。さらに澄邁県令に降格され、死を賜った[2]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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