二河町・阿賀時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 03:54 UTC 版)
戦後、医専は呉市からの誘致の申し出を受けて1947年(昭和22年)2月、呉市立市民病院(呉市公園通)・呉市立呉病院(同市阿賀町原)が本校附属医院として県に移管(県営化)されたことに伴い、は本校を呉市二河町(元海軍徴用工員宿舎)に移転した。同年11月には失火により基礎教室など校舎のほとんどを全焼、翌12月には本校舎を附属病院阿賀分院内に移転するとともに同音戸分院(呉市警固屋町)に設置。1948年2月には元海軍共済病院阿賀分院(呉市阿賀町小倉新開)の移管を受け、本部事務部及び基礎医学教室を移転した。翌3月には附属医院本院を呉市広町広共済病院跡に移転し、呉市公園通本院跡を二河分院とした。
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