久保田勉之助とは? わかりやすく解説

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久保田勉之助

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/01 02:09 UTC 版)

久保田 勉之助(くぼた べんのすけ、1885年11月3日 - 1962年3月10日)は、大正から昭和時代の日本の化学者教育者東京帝国大学教授、立教理科専門学校(現・立教大学理学部)教授、東邦大学理学部教授、千葉商科大学教授[1][2]

人物・経歴

1885年(明治18年)11月3日生まれ[1][2]千葉県出身[1]。千葉県士族、久松善の二男。後に先代、太郞吉の養子となる[3]

1910年(明治43年)、東京帝国大学理科大学化学科を卒業。第八高等学校(現・名古屋大学の前身の一つ)教授を経て、理化学研究所研究員を務める[2][3]

1919年(大正8年)から1922年(大正11年)までフランスに留学。ポール・サバティエノーベル化学賞受賞者)のもとで有機化学の研究に従事[1][2]

帰国後、東京帝国大学助教授となり、理学部に勤務して理化学研究所研究員を務める。1925年(大正14年)、理学博士の学位を取得[3]

1934年(昭和9年)、東京帝国大学教授に就任[1][2]。教え子には平田義正(名古屋大学名誉教授)がいる。

1944年(昭和19年)に立教理科専門学校(現・立教大学理学部)が開設されると、化学科の教授に就任。開設にあたって数学科の教授には藤原松三郎、地質学科教授には矢部長克が任じられ、物理学科教授には学校開設に尽力し主幹を務めた曾禰武(立教大学教授、後の開成中学校・高等学校校長)が就任した[4]

1951年(昭和26年)、東邦大学理学部教授に就任した後、千葉商科大学教授を務めた[1][2]

久保田は、有機化学の触媒の研究で知られた[1]

主な著作

  • 『有機化学に於ける接触反応論』 ポール・サバチエ著 久保田勉之助 柏木一三 共訳 明文堂 1923年3月
  • 『化学実験法』 裳華房 1927年
  • 『基準有機化学』裳華房 1930年
  • 『化学概論』山海堂 1932年10月

脚注

  1. ^ a b c d e f g 講談社「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」 『久保田勉之助』 コトバンク
  2. ^ a b c d e f 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」 『久保田 勉之助』 コトバンク
  3. ^ a b c 名古屋大学大学院法学研究科 『人事興信録』データベース 『久保田勉之助』第8版 1928年7月
  4. ^ 勝木 渥, 近 桂一郎「若き日の魂, ひとよを貫く : 曾禰武(そね・たけ)先生に聞く」『日本物理学会誌』第33巻第7号、日本物理学会、1978年、561-567頁、ISSN 2423-8872 



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