両カロライナと降伏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 06:40 UTC 版)
「ジョセフ・ジョンストン」の記事における「両カロライナと降伏」の解説
シャーマン率いる北軍がジョージア州を横切り、続いて北へ両カロライナ州を行軍する、いわゆる「海への進軍」について南部の人々が段々と心配になってきたとき、大衆はジョンストンの復帰を要求した。デイヴィスは、サウスカロライナ、ジョージアおよびフロリダの集合的方面軍、さらにノースカロライナと南バージニアの方面軍の統一指揮官にジョンストンを指名した。書類上は3個軍団を率いる重職だったが実際は大した装備を持っていない老兵や州兵の集まりであり書類上の定数も満たしておらず、こけおどしに過ぎなかった。当然この程度の部隊ではジョンストンはシャーマン軍の進軍を鈍らせるためにほとんど何もできなかった。 1865年3月19日、ジョンストン軍はベントンビルの戦いでシャーマン軍を急襲して一部を捕獲し、大部隊を前にして南軍が後退する前に短期的の戦術的な成功を得た。しかしリーがアポマトックス・コートハウスで降伏したことを知ると、その2週間後の1865年4月26日、ノースカロライナ州ダーラムの近くのベネット・プレースでシャーマン軍に降伏した。これはデイヴィスの最後まで徹底抗戦せよと言う命令に逆らうものだった。
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