三木善理とは? わかりやすく解説

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三木善理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/30 07:04 UTC 版)

 
三木善理
時代 室町時代中期
生誕 不明
死没 不明
改名 助太郎→善理
幕府 室町幕府
主君 畠山満家畠山持国伏見宮貞成親王
氏族 三木氏
父母 父:三木善清
兄弟 善理、三郎
善長、重理
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三木 善理(そうぎ よしただ)は、室町時代中期の武士

概要

仮名は助太郎。伏見荘下司で、荘園の鎮守社である御香宮神社の神主であり、畠山満家の被官でもあった[1]

応永24年(1417年)6月には、善理の弟・三郎が強盗事件を起こし、「善理以下悪党等」が本所伏見宮家や奉行の田向経兼、政所の小川禅啓と敵対して下司職や御香宮神主職を罷免された。このとき、善理が横領を行っていたことが判明している。その後善理は主君である畠山満家に訴え出たため、幕府の裁定によって翌年の9月に全ての役職や権限が事件前の状態に復帰している[2]

応永25年(1418年)12月27日には、経兼や禅啓の追放などを求めて訴えを起こしており、翌年に僧坊田代官職の還補と名田年貢の料返も争われた。三木一族と経兼・禅啓の対立は応永27年(1420年)に収束し、翌年12月に善理の嫡男・三木善長の元服式は田向亭で執り行われ、田向長資が加冠役を務めている。応永29年(1421年)の元日には善理・善長父子は初めて伏見宮貞成親王に拝謁し、これ以降御所の宴席に列なるようになり、下司名田地や丹波国草野・土野谷両村の代官職を与えられ、さらに、伏見宮家の遠隔地所領の経営にもかかわった。加えて、小川有理が元服した際に加冠役を務めている[3]

永享4年(1432年)の大和永享の乱では畠山持国から軍勢催促を受けて従軍した[4]

子孫

息子の善長や重理も伏見宮家に仕えた。『地下家伝』によると、江戸時代にも伏見宮家の諸大夫を務めており、享保18年(1732年)に三木善道が死去して以来一旦断絶していたものの、寛政年間に三木善親が継承して幕末まで続いた[5]

脚注

  1. ^ 植田真平「伏見の侍-『看聞日記』人名小考-[1]
  2. ^ 植田真平「伏見の侍-『看聞日記』人名小考-[2]
  3. ^ 植田真平「伏見の侍-『看聞日記』人名小考-[3]
  4. ^ 植田真平「伏見の侍-『看聞日記』人名小考-[4]
  5. ^ 三上景文『地下家伝 第21-26日本古典全集 ; 第6期)[5]』(日本古典全集刊行会、1937年)



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