ローデンバッハの文献記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/02 07:46 UTC 版)
「ローデンバッハ (マイン=キンツィヒ郡)」の記事における「ローデンバッハの文献記録」の解説
さらに確かなローデンバッハの記述は、13世紀に再び現れ、14世紀にその数が増加する。1222年の裁判記録に「Rodinbach の男たち」がマインツのシュテファン修道院とハーナウの森の土地について争っていることが記録されている。リュッキンゲンの騎士ゲルハルト・ルーシェブッシュが、マインツの聖職者会とローデンバッハの所領を争い、失ったが、訴訟を起こしたというものである。 1241年の事例では、ローデンバッハの礼拝堂について初めて言及されている。グロースクロッツェンブルクの司祭であったブルーノという名前の聖職者が、礼拝堂の保護権についてハーナウ伯に苦情を訴えた。ローデンバッハの礼拝堂はグロースクロッツェンブルクの教会の下位機関に過ぎないのだから、新しく任命されるその担当聖職者の任命権はブルーノにあるという内容である。しかしこれに対してハーナウ伯は、すでにこの保護権の行使については履行されており、こうした権利は自らにあると反論した。裁判所は、この主張を受け容れ、ブルーノの訴えを退けた。 1337年にはローデンバッハの教会に関する証拠が初めて現れる。これは、大天使ミカエルに教会を献堂することを許可した聖ミヒャエル教会に対する許可証の断片である。しかし、このミヒャエル教会の建物が1241年に言及されている礼拝堂であるのか、それを増築あるいは建て替えたものであるのかは不明である。
※この「ローデンバッハの文献記録」の解説は、「ローデンバッハ (マイン=キンツィヒ郡)」の解説の一部です。
「ローデンバッハの文献記録」を含む「ローデンバッハ (マイン=キンツィヒ郡)」の記事については、「ローデンバッハ (マイン=キンツィヒ郡)」の概要を参照ください。
- ローデンバッハの文献記録のページへのリンク