ロベールの進撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/09 06:09 UTC 版)
「サン・トメールの戦い」の記事における「ロベールの進撃」の解説
ロベールが攻撃目標を隠そうともせずサン・トメールに直行したため、フィリップ6世はブルゴーニュ公ウード4世に数千の兵を率いて防衛に向かわせ、1週間後にさらにアルマニャック伯ジャン1世の部隊を送り込んだ。両将は町の防備を固め、住民を避難させた上で郊外を破壊して城壁を強化した。ロベールは見当違いにも、サン・トメールに近づきさえすれば城内のフランドル派住民の手引きで町は落ちると思い込んでいた。あてがはずれても進軍を続け、7月25日に町の東側に布陣した。 ところが、背後にフィリップ6世率いるフランス軍が迫っているとの知らせが届き、挟撃を恐れたロベールは町の周囲に配置した軍をいったん引き揚げて敵の面前に布陣し、わざと隙を見せて攻撃を誘った。中央にイングランド長弓兵、左翼にイーペルやモンスの兵、右翼にブルッヘの兵を置き、後衛にフランドルの混成軍を配置した。
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