ランガージュと現実界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:58 UTC 版)
「ランガージュ」の記事における「ランガージュと現実界」の解説
たとえば資本主義社会には無数の会社があり、会社と会社は契約という掟=法で結びついているように、人間社会は言語活動によって営まれている。私たちが「生きる」とは、その言語活動に飛び込むことにほかならない。まったく言語活動なしに「黙って生きていく」ということは、象徴的な意味では不可能である。たとえ社会から隔絶した森のなかでひとり暮らしたとしても、自分に対して「生きている」ということを意識する労を省くことはできない。 自分や人に向かって「生きている」と示すことなしに、純粋にただ生きている状態は、ラカンのいう「現実」でもある。「生きていることを意識しないで生きる」とは、あたかも乳児が口から母の乳房を離さないままでいられるような、享楽(仏: jouissance)の満ちた状態である。しかし、やがて乳房は口から離れていく。同じように、「生きている」と意識した瞬間から、「現実」からの乖離が始まる。「現実」と「私(主体)」のあいだに言語活動(=象徴界)が参入するからである。 言い換えれば、言語活動は私たちを「現実」から引き剥がすものであり、もともと私たちがその中に住んでいたはずの「現実」に住み続けることを不可能にするものでもある。それと同時に、言語活動は「現実」を全能的に支配する。なぜならば、言語活動なしには、私たちは「現実」といっさいやりとりできないからである。
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